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| 作者 | 輪舞の人 |
|---|---|
| 作品名 | 機械知性体たちの輪舞曲 最終話 『あなたがわたしにくれたもの』 |
| カテゴリー | 長門SS(一般) |
| 保管日 | 2007-06-11 (月) 01:33:16 |
| キョン | 不登場 |
| キョンの妹 | 不登場 |
| ハルヒ | 不登場 |
| みくる | 不登場 |
| 古泉一樹 | 不登場 |
| 鶴屋さん | 不登場 |
| 朝倉涼子 | 不登場 |
| 喜緑江美里 | 登場 |
| 周防九曜 | 不登場 |
| 思念体 | 登場 |
| 天蓋領域 | 不登場 |
| 阪中 | 不登場 |
| 谷口 | 不登場 |
| ミヨキチ | 不登場 |
| 佐々木 | 不登場 |
| 橘京子 | 不登場 |
夜の病院から、彼の伝言を携えて自分のマンションへ向かう。
途中、誰にも会う事はなかった。「機関」とおぼしき人間も確認できなかったし、他の情報端末も存在する気配はない。
喜緑江美里も姿を現さなかった。
思考リンクによる接触すらない。むしろ拍子抜けという感じがしていた。わたしが”彼”と何を話したのか、彼女は知りたがるかもしれないと思っていたのに。
これがもしも朝倉涼子だったら。
……あの人だったら、きっと根堀り葉掘り聞いてきたのだろう。そんな予想をしている自分。それは間違いのないものだという確信もあった。
今だったら。
帰り道。夜の街の風景に意識を向けながらも、静かに彼女の顔を思い浮かべている。頬を撫でる風は冷たかった。
そう……いろいろ話して聞かせてあげる事もできるのに。
そんな事を考えている。感じたものすべてをうまく伝えられるかわからないけれど。
静寂に包まれた街の歩道。もう午前一時になろうとしている。この時間帯には当然ながら人影はほとんどない。
時折り、思い出したように自動車が側を走り抜けていく。そんな街灯がぽつぽつと灯る暗い夜道をひとりで歩きながら、わたしは夜空を見上げてみた。冬の星々がきれいに瞬く天の光景。気温も今夜は一段と低かった。
わたしは見上げた空に向かって、つぶやく。
「もしも聞きたいのだったら、戻ってくるといい」
話してあげよう。わたしが感じた事。思った事。
あなたに話し足りない、不平と不満もある。そういうもの、すべてを。
子供扱いばかりしていたという――時の向こう側に行ってしまった彼女。
わたしが可愛い……? 心外というものだ。
いろんな想いが自然と湧き上がってくる。何時間あっても語り尽くせるとは思えないほどの。
だから。わたしはもう一度心の中でつぶやく。戻ってくるといい。あなたが初めてそうしてくれたように、わたしは自分の部屋にあなたを誘おう。そしてふたりでこたつに座り、あなたのためにお茶を入れよう。そうしたら――
その時、背後に何かの音が響いた。
何か、重たいものが倒れたような。
反射的に振り返る。完全に外部状況走査を失念している自分。
視線の先には……何の事はない。一匹の野良猫だった。白地に黒いぶち模様で彩られた体毛を持つ成体が、わたしの背後に位置している。尾は曲がっていた。音から予想できたように植木鉢を転がして、そして自分でも驚いているようだった。
その個体はわたしの姿を胡乱そうに確認した後、ふいと姿を消すように夜の街の路地裏に走り去っていった。むろん後片付けなどするはずもない。
その姿を見届けて、唇がある形に変わる。
数ミリ程度が動いたに過ぎない。本当に薄い、あるかないかわからない程度のもの。
でも、それは今確実にわたしのものとなっていた。
住み慣れた我が家。すでにそう呼べる空間七〇八号室へと戻ると、すぐに部屋の明かりをつけ、一息つく事もなくシャワーを浴びる為に浴室へ向かった。
もうすっかり習慣になったな。制服を脱ぎながらそう、ひとりごちる。身体洗浄機能ともいうべき情報操作は実行しなくなって久しい。
まったく端末らしくない。誰のせいだろう。
……決まってるけど。
軽く体をシャワーで洗い流し、最近買ったばかりの新製品のシャンプーで髪を洗い、申し訳程度に体を温める。その心地よさに、病院で彼と対面していた時の緊張もほぐれ、思わず声が出る。
脱衣所に戻ると、気に入っているふかふかのバスタオルで水分をふき取り、用意しておいたスウェットに着替えた。
すっきりとはしたものの、やはりこの季節には入湯した方が良いのかも知れない。一般に湯冷めと呼ばれる状態を予想・確認。体力の低下に伴うウイルス性の疾患など関係ない体なのだが。
洗濯はいつしようか。洗濯籠に溜まった衣類を見て少し悩む。どうも冬場は洗濯物が乾くのが遅くて困る。
乾燥機を使うのはあまり好きではなかったが、それも仕方ないだろう。本当は天日干しが好きだった。雑菌の消毒には太陽の紫外線が、というものではなく、ただ、取り込む時の太陽にさらされた生地の匂いが好きだった。乾燥機では微妙に違う。これも彼女との生活で身についた癖なのだが、それもまた、今は自分のものになっている。
ドライヤーで髪を乾かしながら、明日にでも溜まった洗濯物を片付けてしまおう、と考える。
もっとも……情報統合思念体の処分が下り、消去されなければの話、だが。
鏡の向こうの自分の顔は、そういった現在の状況においても、あまり変化はない。
不安はなぜか、今はなかった。
今夜、この後何かしようかと考えつつも、特に思い当たるものもないので、自分の為にお茶を入れた。本は今日は読む物がない。テレビも元々あまり見ないし。
時刻はすでに午前二時になろうとしている。もう少ししたら寝ようとは思うのだが。
暖めておいたこたつに足を入れ、静寂に包まれた部屋の中、湯気の立つ茶碗をじっと見つめている。
頭の中がからっぽになったみたい。
今夜、病院で交わされた会話の内容について検討する、という事がうまくできていない。しかし不快なものはまったく感じなかった。
さっきも思った事だが、不安や焦燥などといったネガティブなものがまったくない。平穏そのものの精神波形。
処分が検討されているというのに。何だろう、これは。今までにないものだ。
何気なく天井を見上げた。
自分で彼の事を「そう」思っているという自覚。おそらく、その事実に呆然としている自分、という状態なのだろう。
彼へ何かを求める事も、今では考えていないにも関わらず、わたしは満たされている自分を認識している。
なるほど。わたしは思う。
朝倉涼子が教えてくれた、たったひとつの事。
それはとても――そう。こんなにも素晴らしいもの。
不安や焦燥がまったくない、今の状態。
そして、きっと……これが「しあわせ」と呼ばれるもの。
たぶん、間違っていない、と思う。
翌日。十二月二十一日。
情報統合思念体から、地球に配備されている全ての情報端末に通達が発せられた。
我々情報端末群の大規模な再編成。それに伴う配置変更命令だった。
これにより、喜緑江美里とふたりだけになってしまっていた特殊情報端末群の解体が決定する。
わたしたちはバックアップを伴わない独立端末としてコード変更を施され、それぞれが異なる任務へと移行することが命じられた。
もっともわたし自身の任務内容に大きな変更はなかった。従来通りSOS団の組織の一員として残り、彼らの観測を継続する事。
それだけだった。
もっとも気がかりだったわたしの処分には一切触れていない。どういう事だろう。
喜緑江美里についての詳細も知らされなかった。ただ北高に残り、別の行動を取るようになるだろうということはわかったが、それがどのようにこちらの任務に影響していくのか。まったくの不明だった。
そしてわたしへの処分が保留されたまま、時間が経過し、いくつかの出来事を経験する。
――あの白い世界での遭遇と、過去への遡行。
わたしは、過去のわたしと再び会いに行くのだ。
そして、時は流れてゆく。
一月三十一日。
明日はわたしの誕生日。この世界に生まれて四年目を迎える日。
実際に、覚醒したまま迎えるのはこれが初めてだった。
待機時間に経過した二月一日はこれまでにもあった訳だが、それはマンションの中で膝を抱えたまま、冬眠した状態で過ごしてしまっていたから。
そして今日、わたしは自分にとって重大な行動を取ろうとしている。
自分の創造主と向き合う。
そう、決心していた。
その日、学校から戻った後、台所で再度外出する為の準備を始める。
近くのコンビニで学校の帰りに購入した牛乳パックの口を開けると、そのままレンジで少しだけ温め、ビニール袋に容器になる平皿も一緒に入れた。それを片手に、わたしは暗くなった外へと再び出かける。最近のちょっとした日課だった。
マンションから外に出ると、空を見上げ、白い息を吐いてみる。
寒気団はそのまま停滞していた。明日も寒い一日になるだろう。
明日の夜も、また降るのだろうか。
わたしを包み込むようにして舞った、白い結晶が。
猫がそこにいる。
野良猫。シャミセンと呼称されるあの個体とはまったく別の猫。
痩せていて尾は短い。白地に黒のブチ模様。どこでも見かけるようなごく普通の雄の猫。彼が入院していた病院から帰る時に出会った、あの猫だった。
いつの間にか、わたしのマンションの付近をテリトリーに決めてしまったようで、ここのところよく見かける。偶然、なのか。それとも、これは人間が言うところの「縁」というものなのか。
わたしは用意してあった温めた牛乳のパックを、手に下げたビニール袋から取り出した。
街灯の明かりも届かない薄暗い場所だった。マンションの裏庭での事。周囲には人の気配はない。
ずいぶん昔に同じようなことをしたな。準備をしながらそんな事を考えていた。
小さな子供とふたりで。まだ彼女がそばにいてくれた時の事だ。
お墓参り……あれ以来、行っていないのか。
今度、機会があれば時間を作って行ってみよう。朝倉涼子とふたり、アイスの棒で作った小さなお墓だった。もう残ってないのかも知れないけど。
よくよく振り返ってみれば、あれが生命というものの意味を考え始める、最初のきっかけとなった出来事だったと思う。
彼女はわたしを後ろから抱きしめてくれていた。”もうひとりのわたし”の精神世界にいた時もそうしてくれた。
わたしが猫の亡骸を抱えていた時、あの人は何を考えていたのだろう。
生命……なくなったら、もう戻らないもの。
そんな思いにふけっていると、甘えたような猫の声がわたしを呼び戻す。
視線を下に戻すと、取り出した牛乳パックを見上げながら、何かを訴えかけるように猫が小さく鳴き声をあげていた。
わたしは心の中で彼の名前を付け加えて謝罪する。その個体には、わたしだけがつけた識別用の個体名称があった。
ごめんね、ブチ。
わたし自身が何かに名前を与えるという事自体が初めての事だったのかもしれない。感慨という程のものではないが、感じるものはある。
ブチの様子を観察しながら健康状態に特に変化がないことを認め、その後に自分で用意してきたプラスチック製の平皿に牛乳を注ぐ。そこからは、ほんのかすかに湯気が立ち昇った。
ブチはわたしの動作をじっと見つめたまま動かない。注ぎ終えるとブチの前にしゃがみこみ、白い液体に満ちた平皿を彼の前に置く。
警戒は今はほとんどしていない。最初に出会った頃に比べれば、ブチはまったく無防備といって良いほどの態度でわたしに接してくる。
「飲んで」
彼にしか聞こえない程度の小さな声をかける。
ブチはその言葉を待っていたかのように静かに平皿へと顔を近づけ、ざらついた舌でぬるい牛乳を舐め始めた。
まるで言葉がわかるみたい。
わたしはしゃがんだまま、ただ黙ってそれを見つめている。
おいしい、のだろうか。猫にも味覚はあるのだろうけど、それをわたしは聞くことができない。
猫と会話ができるのなら訊いてみたいものだと考える。
それは別にわたしが供与する餌のことだけではない。
生きているという事。
あなたはどうして生きているの?
それに意味があるとして、あなたはそれを理解しているの?
「生まれてきて、しあわせ?」
ブチは答えない。
まあ、当たり前の事。
猫は人語を話さない。
かつてそんな事をしでかした例外を一匹だけ知っているけど。
今でも話せたらいいのに。
六百年。ずいぶん長い時間を過ごしたものだと思う事もある。
今こうして、ここに無事で居られることにも複雑な思いがあるし、何より自分の今後の事を考えているという状態にも軽い驚きを隠せない。
自分のこれから?
わたしがこれからどうなっていくのか。
そんな事を考えたのはおそらく初めて。
もちろん、これまで未来に対して思索したことはある。
だが、今考えているのはそういったものではない。
確定した未来にどう対応するか。そういう規定された未来に対する、短期的なレベルの問題ではなかった。
同期を封じた今、わたしにはこれから起こる未来が予測できない。
わたしはこれからどうなっていくのか。
処分はくだされないままだった。配置変更があったとはいえ、現在も任務は継続している。
どうなるかは不明だか、今夜それを確かめるつもりでもいた。
もし処分が何もなかったとしたら、おそらく今の任務――涼宮ハルヒの観測任務――が終了次第、別の任務に移行するだろう。
そして時間が過ぎ、そのうちに彼らが不要と判断すれば、凍結か……やはり廃棄されるのかもしれない。
作られたもの。そういうもの。
人間たちは自らを補助する機械というものを作り出し、それを利用し、活用し、不要となれば捨ててしまう。
わたしもそういうものだ。作られたもの。厳密には違うのかもしれないけど。
そんな作られた存在であるもの、わたしが、今後自分がどういう……「人生」を送るのかを考えている……たぶん、この表現には間違いはないと思うのだけど。
ただ淡々と与えられた役目を果たせばいいだけだろう。本当なら。
機能が停止してしまう、その時まで。
でも、今はそんな刹那的な思考はわたしにはできない。
どんな事が起こるかわからない未来。その未来に、自分がどんな姿でいるのか想像している。
ずっと、このまま端末として存在し続けるのだろうか。
そしてその役目はいつまで続くのだろう。
彼らとの関係は?
ヒトはいずれ死ぬ。しかし、わたしにはそういった寿命はない。だから彼らとの別れの時は必ず訪れる。
もっとも、それ以前にさまざまな要因で機能停止という死を迎える事は充分にあり得る。
昨年暮れの、雪山での新たな接触によって無力化された自分の事もある。
もしくは東京でのああいった危険な遭遇。これからも発生するかもしれない。
いつ、どうなるか。それがわからない。
様々な勢力が涼宮ハルヒを中心として策動している。そのそばには”鍵”とされる彼もいるのだ。
彼らを、SOS団のみんなを、守りたい。
自分のこの身を盾にしても。
ずっと前にそう、決めていたから。
こんな考えを知ったら”彼”は怒るかも知れないな。
そんな事を考えながら、自嘲のような笑みを静かに浮かべる。事件以来、ぎこちないけど、でもいつの間にか自然にできるようになっていた。まだ、誰にも見せたことのない表情。それが浮かんでいる。
いつか、誰かに見せることができるかも知れない。
それは今ではないと思うけど。
あのクリスマスの事件から一ヶ月半が経過しているが、相変わらず他の端末の考えはわからないままだった。そもそも端末個体が「考え」というものを抱いているとは思えない。
わたしを含めた特殊端末群の三体。それと最初期に作られたという九体の端末。これを除けば経験を蓄積し、成長していくという機能はどの端末も持っていない。
そのはず、なのだが。
喜緑江美里などは何かを考えているのだろうか。自身の未来の事を。わたしのように。
それと……朝倉涼子は。どうだったのだろうか。
みんな、自分の未来の姿などを想像したりするのだろうか。
思考は再び巡る。
彼らSOS団と過ごす日々。
おそらくは涼宮ハルヒという存在を巡る、戦いなのだと思うが、それが終わる時。
本当にすべてが終わった後。わたしはその後どうなるのだろう。
……いや。どうなるのか、ではない。
ブチがわたしを見上げていた。気がつくと、もう平皿の中身はなくなっている。
何気なく手をブチのふさふさとした体毛に伸ばしてみる。ブチは拒まなかった。
暖かい有機体に宿るその熱を手に感じながらわたしは思考する。きっと以前ではそんな事を考えることは絶対になかった。
……そう。どうなるのか、ではない。
どうしたいのか。
――わたしが、どうして、いきたいのか。
わたしが自分で望み、考え、能動的に行動する未来。
わたしは、いったいどのように「生きて」いきたいのだろう。
作られた端末のわたし。
でも、だけど、それでも、「生きて」いきたい。
この世界で。
他の人たちと、共に。
そんな事をぼんやりと考える時間が多くなっている。
わたしが決定的に変化したあの日、十二月十八日以来。
――わたしは……生きたい。
ブチと別れた後、七〇八号室に戻り、ひとりその時を待っていた。
こたつの上には、「四冊の絵本」と「眼鏡」がある。それを見つめながら、これから行う行為を思い、勇気を出そうと自分に言い聞かせている。
わたしは生まれて初めて、情報統合思念体主流派に対して直接、データ送信ではないコンタクトを試みようとしていた。彼が伝えろと言った言葉。それをわたしのこれまでに得た経験をフィルタとして整理し、伝えようと考えていた。
それと直接訊いてもみたかった。今まではしようとも思わなかった事。
わたしという存在は、何か。
情報統合思念体に直接、その考えを訊いてみたい。
「わからない、ではいけない」
それはわたしが学んだ事のひとつだった。
振り返ってみれば、人間たちに対して懸命に「わかろう」としていた事そのものを、情報統合思念体に対して試みた事が一度もなかった。あたり前すぎる事だったから。
自分を生み出した創造主の意向というものを、わたしは……意図的に、わかろうとしていなかった。知りたいとは思っても、実施しようとはしてこなかった。
それを今やってみようと思う。おそらく、融合して本当の意味で生まれた”わたし”が取った、一番最初の端末らしからぬ行動だった。
過ぎていく時間の中で、今回の事件について、自分なりに推測したものを確認してみる。
この計画の事。自律進化を求める、もうひとつの計画。
ヒトというものをよくわからない情報生命体。それが懸命に真似て作り出した擬似人間ともいうべき“もうひとりのわたし”が、涼宮ハルヒのような力を与えられた時、どんな世界や自分を形作るのか。
自律進化の根源を、ではなく、自分たちが生み出した”何か”が、個を得た時、どのような自分や世界を望むのか。その果てにある世界を観察するという壮大な実験だったのかも知れない。
当然、人間である……はずの涼宮ハルヒがしようとした行為とは似ても似つかぬ、世界崩壊に繋がるような改変を行い、結果、試みは失敗した。
計画を立案した統合思念体も危うく自己存在を抹消されかかった。
今のわたしだからそれを滑稽だ、とも思えるが、たぶん笑う事はできないのだろう。
かつてのわたしが、まさにそうだったのだから。
『…………せつぞく、せよ』
時間が来た。
明かりもつけない部屋の中で、わたしの思考領域にうっすらと、額のあたりから何かが侵入してくるものを感じる。むずがゆいような、不思議な感覚。
これまでのものとは違うリンク形式。直接、主流派と呼称される思念流本体にコンタクトを取っている。端末支援システムを経由しない、直接接触。慣れない感覚だった。
リンクの向こう側からはささやきのような、渦巻く思考波が伝わってくる。主流派という派閥。
その中でも幾重もの思考流が存在しているのだという事を、この時初めて実感した。
『……せ…つぞく、せよ』
再度の呼びかけ。伝わるものはイメージ。通常の支援システムを介する、明確なものではない。言語に変換すると、おかしなものになってしまう。
わたしは意識を集中する。
データではない。わたしもまた、彼らに「言葉」を伝える。
わたしが聞き、その時に感じたことも包括した総合的な情報伝達。
それをあえて「言葉」とそれに伴う「何か」をまとめた、非常に曖昧な「概念」として伝える。初めての、そういう試み。
齟齬は相当な確率で発生するだろう。彼らはわたしの感じたものをノイズとして遮断してしまう恐れがある。それを、彼らにもわかるように整理統合しなければ。
……そんな情報整理などできないのが、有機生命体の感じるものなのだろうが、それでも、できるだけの事はしてみたい。
(……準観測対象から、直接伝えるよう託された「言葉」がある)
『「言葉」』
(そう。「言葉」。抽象的に過ぎると思われるアナログな情報だが、その中にある「想い」というものも含めて、伝えたい)
彼の、あの病院での言葉。
わたしを仲間として認めてくれた。彼もまた、わたしを守りたいと考えてくれていた。
嬉しい。
そばにいたい。
わたしも。
いろいろな感情がないまぜになる。未だにわたしは自然に発生する感情を完全に把握しきれていない。その発現に胸が締め付けられそうになる。
彼らのそばに……いさせて欲しい。
わたしという存在を消さないで欲しい。
彼が、それを望んでくれている。
もやもやとしている。
苛立ち。うまく彼の言葉に込められた「想い」を具象化できない。
それはやがて、わたし自身の想いも重なったものへと変化していく。
なぜ生きていたいという、たったそれだけの事が許されないのか。あの喜緑江美里の消失時にも感じたその気持ちが再生される。
おそらく、彼が感じたもの。それと同じもの。どうしたら伝わるだろう。
いや、そもそもなぜこんな……「簡単な事」が彼らには伝わらないのか。
とても簡単な事なのに。
存在し、生きていくという事。
他者を大切に思い、共に助け合っていくという事。
愛する人たちと一緒にいたいという、とても簡単な事。
それらが、とても素晴らしい事なのだ、と。
そんなものを理解させるのに、なぜ一端末に過ぎないはずのわたしがこんなに苦労をしなければならないのか。
銀河を統括するという高度知性体の彼らが、なぜそれを理解できないのか。
もどかしさが募る。苛立ちもまた同時に。
ぐるぐると回る思考。整理できない気持ちがそれに拍車をかける。
わたしの内面の葛藤が、沸点に達した。
その時だった。
(……「くそったれ」)
……沈黙。
待って。
……それは、その……違う。
それは意図せずに転送されてしまった、言語情報。
でもすでに遅い。それは確かに向こう側へと送られてしまった、彼の言葉だった。
しかし。これは、わたし自身の言葉にもなってしまっていたのでは。
知らずに熱くなっていた頭から血の気が引く。冷や汗が流れる。
……冷や汗? わたしが? それは本当に、初めての事。
失敗を犯したのではないか。その事に対する後悔。
喉が、鳴る。無意識に。
……沈黙は続く。
……いけない。
気持ちの整理もつかないままに紡いだ突然のわたしの「言葉」と、そこに込められた「想い」とも言うべき思考波に、思念体が硬直している。
何とかしなければ。
(……訂正。いや、補足する。これは彼の言葉。彼は続けてこう言った。もし、わたしが消去されるような事態が発生する場合、涼宮ハルヒに対して自身の能力を自覚させる。そういう行動を取る用意があると)
『………』
(その後、世界を再度改変し、情報統合思念体を今回の件のように消滅させるつもりであると、彼は言っている)
沈黙。
返答はない。
伝えられた言語情報を、どう捉えているのだろうか。
これは脅迫。
わたしの身の保全を引き換えにした、脅迫行為そのものだ。
“彼”は情報統合思念体の存在を恐れていない。理解が及んでいないだけなのだと思うが。
もし、仮に情報統合思念体の全てを、有機知性体の彼が本当に理解したとしたら、恐れではなく、その提案そのものが意味のないものだと理解したのかもしれない。
記憶すらも情報操作が可能な存在に、このような提案そのものがまったくの無意味だという事。
……もっとも、彼はとっくにそのような事は理解している可能性はある。
“彼”の理解力、想像力、分析能力は高い。
他の人間と比較して、例えば古泉一樹のような非常に聡明に思える個体と比較しても遜色がないどころか、むしろ高いレベルにあるとさえ推察できる。
きっと理解している。それでも。
そう。それでも、言いたかったのだろう。
怒り。自分という存在と、その周囲にある「大切に思う、無くしたくない存在」。
それを高次の視点からどうとでもできるという、そんな思いあがったと受け取られる行動を取る、情報統合思念体にぶつけたかったもの。
……それは。
それこそ、融合前のもうひとりの”わたし”が抱いていたものでは。
そうなのか。これが。
わたしの中に芽生えた、朝倉涼子が残したもの。
想い。それを抱くもの。
人間そのものなのだ、という事。
対して続く沈黙。
わたしは言葉を続ける。
(彼は……情報統合思念体に対して不信の念を表明している。これまでの我々は彼に対して全ての情報を公開していない)
わたしに対しても。
(今後、彼は情報統合思念体がどのような動向で動いても、SOS団に所属する人員の保護を最優先に行動するものと推測される。これはほぼ確実なもの)
『これまでの報告でそれは理解できる』
「言葉」と、そこに込められた「想い」という、曖昧な情報でのやり取りは続く。
『準観測対象。”鍵”は、現状の維持をもっとも優先させる行動を取り続けると推測される。極めて高い可能性だ』
(わたしの存在もその条件に含まれる)
『………』
(返答を)
『………』
返答はない。その変わりに、ざわめきのような波がわたしにぶつかる。
混乱している。わたしが融合を果たしたあの直後の思考波の乱れと似たようなものだった。
端末であるはずのわたしが、自己保存を直接創造主に要求しているという事実。おそらくその事に対する衝撃なのだろうと思う。
彼の言葉でもあり、同時にそれはわたしの意志でもあった。
わたしは、生きたい。
それを伝えた。その事に対する動揺なのだろう。
彼らにとって、わたしの今の行動そのものが完全にイレギュラーのはず。
かつて思索派端末が言った。「人間であれば、そのように行動するはず」。
だがこれはそういったプログラムによる反射行動ではない。これはわたし自らが望んだ、初めての自律行動。わたしという個体の意志なのだ。
本来感情など芽生えるはずがない。確かに。でも彼らはそれこそを作り出そうとした。実際に生まれたそれを目の当たりにして、その反応を受け入れられないという事なのか。
混乱は徐々に沈静化していく。
冷静に彼らの思考を感じていると、少しずつだがその思考波に変化が出てきていた。
何だろう。これは。
……評価……混迷?
彼らは今、確かに何かを「感じて」いる。そしてそれに対して戸惑っている。分析しているのはわかるが、それが……うまく捉えられていないようだ。
おおまかに分類できるとすれば、それは確かに肯定的とも取れるもの。明るい、軽く広がっていく、柔らかな波のようなイメージ。
あくまでイメージだ。今の言葉やわたしの行動そのものを、彼らが理解しているとは思えないのだが……しかし、これは。
わたしが感じるその波には冷たさや、痛々しさなどの否定的なものはまったくなかった。
あえて表現できるとすれば、それは確かに……「喜び」と言っていいもの。
他に表現のしようがない。
わたしは言い様のない感覚に捕らわれている。彼らにそれが理解できるのというのだろうか。本当に。
しかし、なぜ今の会話の内容を「喜ぶ」のだろう。
これは反抗とも言えるもの。創造主たる統合思念体に対して、その被造物である端末のわたしが脅迫しているのだ。
それを「喜ぶ」? どういう事だろう。
訊いてみたい。彼らの感じているものを、理解してみたい。
(今のわたしのこういった行動は、主流派にとって評価できるものなのか)
『不明確』
(……端末であるわたしという個体が自己保存を要求するという今の行動は、あなたたち情報統合思念体からどのような評価を受けたのか)
『………』
いちいち時間がかかる。もどかしい。
わたしの言葉を要約するなら、「生きていたい。殺さないで」という希望だ。生命の基本となる本能のようなもの……のはず。
それを端末であるはずのわたしが表明した、それをどう考えているのかを知りたい。
どうなのだろう。彼らにはエラーとしか評価されないのだろうか。
それとも。
『……予想を、超えた、もの。それは……』
声は、彼らが表現するのに適切な言語を選択するためなのか、たどたどしく、時間がかかっている。
ゆっくり、本当にゆっくりと彼らは言葉選んでいた。
『長門有希、という個体が……変質した、今の状態を、我々は、評価している』
(評価。どのように)
わたしは食い下がった。
朝倉涼子が、喜緑江美里が、あの思索派端末が、その身を投げ出してまでわたしを生み出してくれた。
それがわたしだった。けっして自分だけのものではない、わたし。
そんな風に生まれた自分を彼らが、どう評価するのか。それを知りたい。
いや、自覚させたい。
わたしは、あなたたちにとって何なのか。
(あなたたちの言葉で、それを表現して欲しい。どう感じているのか)
『……感じ、る』
再び戸惑いとざわめきのイメージ。混迷している、再び広がる、乱れてしまっている深い波。
彼らなりの言葉を懸命に探しているような、そんな感覚。
また時間が経過する。しかしわたしは待った。
生み出したものたちの、言葉を。
そして。
『感……謝、する』
……感謝?
意味がつながらない、ようにも思える。
懸命に、彼らなりに選んだ言葉だというのは理解できるが。
『感謝する』
言葉が重なった。そこに付随するイメージは、先ほど感じていた「喜び」よりももっと強いもの。
遥かな深みから、静かに、重く、広がるような……ものが、伝わる。
わたしの中へ、確かに響くものがある。
そして――最後にその言葉が紡がれた。
『長門有希という存在が、現時空間に確立された事を、感謝する』
――生まれてきてくれて、ありがとう。
誕生日を祝うべきかな。
瞬間的に、今は消えてしまった思索派端末の言葉を脳裏に浮かべていた。
ずっとその言葉を、待っていたのかも知れなかった。
わたしは、あなたに望まれて、ここに生み出されたのだ。
長い夜が明ける。二月一日。早朝、六時。
外気温は零度を下回っていた。室内暖房をつけることもない七〇八号室のリビングの窓辺から、わたしは空を見上げていた。そこには薄灰色の暗い空が広がっている。
わたしが、生まれた日。
振り返ると、薄暗い室内のテーブルの上には昨夜の状態のまま、本と眼鏡が置かれている。ほんの数時間前、わたしが統合思念体とコンタクトをとっている間、ずっと傍らにあったものたち。
朝倉涼子が残していった四冊の絵本。そして、その上に乗せられているひとつの眼鏡。
窓辺から離れテーブルへと戻り、そっとその眼鏡を手に取ってみる。
これは彼女が初めてわたしに買ってくれたもの。
彼女自身が選び、そして”わたし”を残すために、その想いを込めて託したもの。
そして七夕の日にわたしが修復プログラムとして変成し、一度はわたしの手から離れ、彼に手渡したものだった。
それが今、時を越えてここに存在している。
あれから再度わたしは、過去のわたしを修正するためにあの十二月十八日に戻っていた。朝倉涼子によって再度の命の危機を迎えた彼を救出するためにでもある。
その時、彼の手から譲り受けた修正プログラムの投射用短針銃。
わたしが過去の自分に向けて使用したものだった。
全ての処理が済んだ後、その短針銃はわたしが保持したまま、共に現時空平面へとやってきていた。
わたしが生まれた翌日。一緒に初めての買い物へ行った時の、彼女の提案した計画を思い出す。
これを掛けることで、周囲の視線からわたしが守られる、と彼女は言った。
なぜ彼女がこれを選んだのかを考えている。無論、それは未来へと託す修正プログラムという規定事項の事でもあったろうが、やはりわたしを心配しての事だったのだろうとも思う。
人とうまく接触のしようもなかった自分。それを補うための物でもあったのだろう。
本当に……どこまで心配性だったのだろう。
わたしはそんなに頼りなく見えた?
今はどう?
しっかりやれている?
眼鏡をケースに入れ、それを鞄にしまう。
「行って来る」
最近、誰もいない部屋へわたしは言葉をかけてから出かけるようになっていた。
あの絵本たちは何も返事はしないけど。
少しずつ自分が変わっていくのが実感できる行動のひとつ。
わたしは変わっていく。
「おはようございます」
珍しい事もあるものだ。喜緑江美里がわたしを出迎えに来るなんて。
朝、登校しようとマンションのオートロックのドアを出たところで、いつもの透き通るような微笑を浮かべた彼女が待っていた。
「何かあったの」
組織改変が行われた後、あまり彼女と接触はしていなかった。
実際、彼女がどのような任務に就いているのかは依然として知らされていなかった。
「まあ、歩きながらでも」
どこかに散歩にでも誘うような口ぶりだった。
「新しい任務です」
「誰の」
「わたしたちのですよ」
彼女はさも当然のように言った。
「組織改変されている。変更は無かったと思うが」
「行動はそれぞれ独立していますけど。でも涼宮ハルヒという重要観測に関することですから」
「何か大きな変化が」
「昨年末の事件を、情報統合思念体は懸念しているそうです」
あの雪山での接触か。確かにこれまでにない反応だった。
あれは初めて積極的に向こうから求めるものだったのだと思う。敵対というものではないのだろうが、しかし、相変わらず理解はできないもの。
以前の、あの夏頃のわたしだったらどうだったのだろうか。
知る事ができたのか。自信は当然ない。
「何でも、対象に呼称を設定するという話も出ているとかで」
「接触可能な同等の自律存在として認めるという事?」
「いつまでも正体不明の意識集合体という認識でもいられないでしょうから」
あの時、発熱に伴い無力化し、ベッドに横たわっていた自分。
SOS団の彼らの助けが無ければ、今頃どうなっていただろう。
取り込まれた? それとも何事もなく開放されただろうか。
情報統合思念体からのリンクすらも寸断された危機的状況には違いなかった。そのように脅威とは感じるが、しかし不思議な事に恐怖は感じなかった。
あの東京の時とも微妙に違う。彼らもまた、我々を理解したいのではないのだろうかと思う。
仮定の話ではあるが、ともすると……そのうちに、我々と同様の物理接触を図ってくる可能性が考えられる。
ヒトという有機生命体。
なぜ我々を生み出した情報意識体は、そしてもうひとつの存在である広域帯宇宙存在たちは、これほどまでに人間という存在に拘泥するのだろう。
わたしの中にあるもの。
彼女がわたしにくれたものがある。
きっと――それを知りたいのだろう。
わたしだけが得た、大切なもの。
新しい行動指針を説明していた喜緑江美里に視線を向けた。
今は彼女しかいない。姉妹とも呼べる端末。
わたしの様子に違和感を覚えたのか、言葉を止めた彼女がわたしを見つめる。
「……何か?」
「今後の話。あなたに言っておきたい事がある」
「どんな事でしょう」
少しだけ首を傾げた彼女に、わたしは言った。
「いろいろと言いたい事はある。これまで言おうとして、うまく言えなかった事」
「何なりと」
飄々とした態度だった。
どうも、彼女も朝倉涼子と同じく、わたしを子供扱いしている節が見受けられる。それがはっきりとわかりつつある。
つまり――癪にさわる。
だから言葉も、自然と尖ったものになってしまう。自分で制御できない、それは……面白い感覚だった。
あえて制御しない、それを言葉に表してみる。
「わたしに対する、あなたの態度について」
「はい」
「あなたの行動には、ユーモアという表現からは明らかに逸脱している傾向が度々見受けられる。それを改めるべき」
「まあ」
さも心外そうな表情。
本当に自然に感じられる感情表現。もっともどこまで本気なのか、こればかりは今のわたしでもわからない部分だった。
「わたしはいつでも真面目なつもりですのに。そう思われていたなんて」
本気?
……本気でやっているなら、なお性質が悪い。
それでもたぶん、彼女の言葉に嘘はないのだろう。自覚がないというなら、これほど恐ろしい存在もないものだが。
「東京の時でもそう。あの広域帯宇宙存在の表現も、今から考えてみるとかなり疑わしい」
「あれは、その場のノリというものです」
ノリ……? 端末がノリとは……?
「消滅の危険すらあるような場面で、そういう発言をするあなたの思考形態が信じられない」
「状況判断を固定化しすぎるあなたに対して、可能性を広げる揺らぎという因子を与えるつもりだったのですが」
「……それは嘘」
「しばらく見ない内に、ずいぶん表現解読能力を研鑽されたようですね。驚きです」
絶対、馬鹿にしている。
「……助け出した人間に、自分たちは宇宙人とか」
「その場を和ませるユーモアが必要と判断を」
「わたしは凍りついた」
「つくづく、真面目な設定を付与されたのですね。今も変わりありませんが」
なぜだろう。どうもこういう会話をしていて――勝てるという気がしない。
朝倉涼子もこういう会話をしていたのか。
……いや。彼女も、あしらわれていたような気もする。
なぜ端末というものに、こんな個性というものが現れるのだろう。例の成長するというプログラムのせいなのか。
「気がついてます?」
わたしの顔を覗き込むようにして彼女が訊いてくる。
「ご自分の融通の利かなさとか、頑固さとか」
「……柔軟性がないという指摘?」
自分でもわかっている。だがこればかりはどうしようもない。
生まれた時からそれは備わっていて……何もないはずの、わたしなのに?
何もない、そのはずなのに。
微細な表情の変化を読み取ったのか、喜緑江美里はふっと笑った。
「そうです。あなたのその頑強に作られた、何事にも屈しないというコアの設定の事です。それは何もないあなたに唯一送られた、主流派からの贈り物だったのではないか、とわたしは思うのですが」
「………」
「過酷な、例えるなら試練とでも言いましょうか。それをあなたに託した時、起こり得るあらゆる出来事に耐えぬけるように。そう考えられ、構築されたのではないでしょうか。その代わり、頑固もここに極まれり、という感じもするのですが。少しは人の話を聞いて欲しいと思う事も多々ありましたよ」
……その先は、あまり聞きたくないような気が。
「東京にひとりで行くと言い張った時なんて、どうしようかと思いました。あの時、たぶんわたしが感じていたのは焦り、というものだったのでしょうね」
「任務だったから?」
「いいえ」
喜緑江美里は何を今さら、というような表情で言った。
「あなたが、心配だったから」
「……約束、だったから?」
朝倉涼子との。
たぶん、それを果たそうとしていたのだろう。
「それも当然ありましたけど。でも、それだけじゃありませんでした」
「他に何が」
「あなたが大切な人だからです。そういうの、わかりませんか?」
言い返せなかった。
何しろ、あの喜緑江美里が、真顔でそれを言うのだから。
学校へ向かう通学路でしばらくそんな言い合いをしている内に、なぜか話題が”彼”の事へと移っていく。
「結局、十二月のあの夜、”彼”と病院で何を話されたんです?」
「なぜ、今その話に」
「昨夜、統合思念体のリンクに異常が発生しました。そのせいでは」
「……異常?」
「初めて、と言っていいでしょう。昨年、十二月十八日も相当な混乱を呈していましたが、今回のはまた違っていた。昨日の夜に、あなたが思念体に対して直接コンタクトをしたのは知っています」
喜緑江美里が立ち止まり、わたしを見る。
「本当はあの晩に聞きたかったのですが……それも野暮、というものだと思いましたので。それでいったい、何を伝えたのです?」
「……何、と言われても」
昨夜の事をどう説明したものだろう。
言葉にするのは難しい。理解できるようになっても、それを言葉に変換するのは今でも苦労する。それには変わりがなかった。
すると、彼女は表情を変える。
微笑みだが……違うもの。これは。
病院に行く直前「誰にも邪魔はさせません」と言った、あの時の顔。
何というか……含み笑いを伴っているような、何かを邪推しているような。
「あの晩、”彼”と何かあったとか」
「……何か、とは」
「まさかとは思いますが。あの夏休みのような事が、もう一度あったのでは」
わたしにそういう機能があるとすれば、本当に全身が凍りついた。
待って。
あなたは、いったい、なにを、いっているの。
「統合思念体、主流派はあなたに全幅の信頼を置いています」
少しだけ表情を真面目なものに変えて、喜緑江美里は言う。
「思索派端末も何か伝えたかもしれません。今回の計画に、あなた以外の主流派端末は投入されていない。そう。あえて表現するならまさに信頼といえる、そのものです」
「……それと、その……夏休みの……それが、どんな関係が」
顔が赤くなっている。確実に体温が上昇している。
まさか。
いや彼女は監視役でもあった。それは知っている。
だが。
あの夜の事を――全てモニタしていたのか。
嘘。
しかし、わたしのそんな動揺をよそに、彼女は会話を続けている。
「わたしたちが変容している、という推測があります」
「……知っている。思索派端末がそう言っていた」
「”宇宙人”であるわたしたちが、涼宮ハルヒの能力によって、彼女の考える宇宙人像に変容しているのでは、というもの」
その評価は知っている。
だけど、それが?
「わたしたちは知らないうちに変容している。それには端末であるわたしたち以外にも、統合思念体そのものにも当てはまるのでは、という推測にも至っている」
「思念体そのものも変容している……?」
「端末を生み出した思念体にも変化が現れている。彼女のわかり易い宇宙人像に変えられつつあるのでは、というもの。つまり子となる端末を生み出したという事は、その創造主は親になる」
そういう関係性が当てはまるとは到底考えられないのだが。
わたしたちは人間ではないのに。
「涼宮ハルヒはその精神構造と備わっている常識だけで見れば、ただの地球人そのものです。その人間の常識が考える、わかりやすい宇宙人像には親は生み出した子供に何らかの想いを託しているというものがあるのでは。そういう事です」
「もっとわかり易く説明して欲しい」
「だからですね」
喜緑江美里は大きく微笑んだ。
「親は大切に思っている娘が、深夜ひとりで、年頃の男性のところに行けば心配をするのでは、という事です」
「………」
言葉が出ない。
そんな事を思念体が考えるはずがない。いや、彼らに考えというものがあるのかもわからない……
その瞬間に浮かぶ、昨日のイメージと、言葉。
――生まれてきてくれて、ありがとう。
あれは……人間の親が思うもの、そのものだったのだろうか。
そういうものが、彼らにも宿るというのだろうか。
「いつか言った事があります。あなたはわたしたち端末たちの希望となるかもしれない、と」
「……東京で。あなたは確かにそう言った」
「わたしたち有機体端末は、プログラムの有無に関わらず、情動というものをごくわずかですが宿している。これは人間をそのまま解析してコピーのように生み出した以上、どうしても避けられないもの。ノイズだった」
彼女は何か嬉しそうにしている。今の状況をとても好ましいものに思っているのだろうか。
「夢を見る、恋をする。そういった、人間の感じるようなものはあなたにしか生まれなかった。厳密には少し違うかもしれませんね。あの思索派端末は、カモフラージュという意味合い以外に人間の異性と交流を持っていたのだから。もちろん完全ではありません。でも、そうなりたい、という深層部分での思考があった。ヒトの言う「想い」というほど、はっきりと形になったものではなかったかもしれませんが」
「………」
「だから。あなたのようなモデルケースとなる存在は希望となった。いつか、もしかしたら、人間を真の意味で理解できる存在になれるのかもしれない。他の端末たちも、わたしも含めてですが、接触対象となる人間を理解したいのです。その為には人間に近づかなければいけない」
「わたしが、そうなの」
「はい」
喜緑江美里は笑う。
「彼ら実体を持たない、情報集合体である情報統合思念体は、わたしたちを通じてしかヒトというものと接触できない。だとしたら、彼らの生み出した、翻訳機とも言える端末がヒトという存在を理解した時、初めて思念総体は有機生命体という存在の真実を理解できるのでしょう。その上で変容する力が加わった時、そして受け入れた時、彼らもまた変わっていける」
それが……進化と言えるものだろうか。
まったく未知のものとの、相互理解ができるという。
――わたしに与えられた役割。
微かに残る記憶の残滓。もうひとりわたしの精神世界でわたしが告げた言葉。
真のインターフェイス、という意味。
そしてわたしの名前。
希望、という意味の。
「……ですから。あなたが昨夜、どのような会話を主流派という”親”に対して行ったのか。とても興味があります。わたしだけではありません。地球上のすべての端末があなたに対して。これまで思念体にああいった種類の混乱はなかったのだから」
「………」
「……で、いったいどんな事を言ったのです?」
ここで振り出しに戻る。
説明をするにも、わたし自身が混乱している。
そんなわたしを見て、再びあの何かを含んだ意地の悪そうな笑顔を浮かべる彼女。
「……邪魔はさせない、とは言いましたが。まさか、本当にそこまで……」
「していない」
むきになって反論している自分。
「あんな場所で、しかもそんな時間も……そういう雰囲気でも」
わたしは何を言っているの。もっと言葉を選ばなければ。
説明が、もうめちゃくちゃ。
「いや。そうではない。そういう話ではなく。そもそもわたしと彼とはそういう関係では――」
「……ずいぶん、具体的なんですね」
彼女は真剣な表情を作り、感心したように言う。何てわざとらしい。
「さすがに、個体経験というものは違います」
「……もういい」
いけない。彼女のペースに巻き込まれては駄目だ。
だいたい、そういう動機であの場所に行ったわけではないのに。
「今後、この話題に触れる事は禁止する」
「ご命令ですか? 指揮系統はもう違いますが」
「わたしと、あなたとの個体間の決め事。涼宮ハルヒの直接観測任務においてはわたしが先任。それに関する事であれば、命令に値する」
「ちょっと理由としては厳しいかもしれませんね」
「……その代わり、あなたと生徒会長との間についてもわたしは何も言わない」
喜緑江美里の顔が静止した。
「……えーと。長門さん?」
「あなたが、あの生徒会長とどのような関係性を構築するのか、何の目的があって、何をしようとしているのか知らないが、わたしはそれには触れない」
「……ちょっと、待っていただけ……」
「これはお互いの利益になるものと確信する」
わたしは初めて優位に立った自分を認識する。
かくも、情報というものは大切なものなのだ。
わたしも他者の関係性を気にするくらいには成長している。そういう事。
「了解した?」
「……はい」
喜緑江美里は小声で返答した。
少し、こちらを見る、その目が怖かったように感じるが――今は気にしないでおく。
一時的な勝利を味わうくらい、そんなささやかな贅沢をしてみたいから。
「……それは、それとして。もうひとつある」
「はい」
少し態度を改めて、わたしは本当に言いたかった事を最後に告げる。
「今後、わたしの為に、何の相談もなく自分を犠牲にするような事はしないで欲しい」
突然の話題の転換に、喜緑江美里が首を傾げる動作。
「それは……これも、ご命令ですか?」
「命令ではない」
一拍置いて、わたしははっきりと彼女に告げた。
「これは、お願い」
一瞬、きょとんとした表情をして固まる彼女。
我ながらこれはどうかと思われる言葉だった。
今までの態度を考えたら、あからさまに不自然な感じがする。変に思われたろう。
どうしよう。撤回するべきだろうか。でも。
本当にそう思っていた。
もう、守られるだけの存在でいたくはない。
――わたしもまた、あなたを守りたいの。
「……はい」
喜緑江美里は静かにうなずいた。そこに浮かんだ笑顔こそ……それは、作り物や演技などではないもの。
きっと本当の彼女の笑顔なのだと、わたしは思った。
――わたしは変わっていく。
今、わたしはいつも学校に行く時、鞄にあの眼鏡の入ったケースを忍ばせていた。
人間の社会には形見という言葉がある。
わたしたちはヒトではなかったが、もし該当する言葉を探すのであれば、この眼鏡を形見と言っても良かったと思う。
彼女が遺してくれた眼鏡。そして四冊の絵本。
そして……わたしの中に芽吹いたもの。小さな息吹。
静かに、今は息づいているだけの存在だが、しかしそれは確実にわたしの中にあった。
朝倉涼子。彼女が全存在を賭けてわたしに遺してくれたもの。
愛という言葉と共に。
生命の意味を知りたかった。
愛という言葉の意味を知りたかった。
その根源にあるもの。
わたしという人形に宿ったもの。
それは、たったひとつの魂というもの。
自身にある全てを投げ出してまでわたしに与えてくれたもの。
それが彼女の答えだった。
あなたが生み出したわたしから、いつかきっと――ひとつの言葉を贈る。
そう決意した時に思う事。
あなたはひとつだけ、間違っていたではないか、と。
晴れ間が見えつつある朝の空を、喜緑江美里と共に見上げる。
愛とは。
きっと与えるだけのものではない。
だから、すべてが終わった時。あなたにそれを教えに行こうと思うのだ。
―最終話 終―
SS集/744 エピローグへ続く