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| 作者 | 輪舞の人 |
|---|---|
| 作品名 | 機械知性体たちの輪舞曲 第33話 『夜が明けて』 |
| カテゴリー | 長門SS(一般) |
| 保管日 | 2007-04-24 (火) 22:38:19 |
| キョン | 登場 |
| キョンの妹 | 不登場 |
| ハルヒ | 不登場 |
| みくる | 登場 |
| 古泉一樹 | 不登場 |
| 鶴屋さん | 不登場 |
| 朝倉涼子 | 不登場 |
| 喜緑江美里 | 登場 |
| 周防九曜 | 不登場 |
| 思念体 | 不登場 |
| 天蓋領域 | 不登場 |
| 阪中 | 不登場 |
| 谷口 | 不登場 |
| ミヨキチ | 不登場 |
| 佐々木 | 不登場 |
| 橘京子 | 不登場 |
システムの起動警告音。
……再起動。正常に作動を確認している。
誰かが目の前に立っている。
誰?
わたしだった。
もうひとりの……同位体のわたしがいる。どの時間平面からここへ。
今の自分の体勢はなぜか座っている。現状が把握できない。
眼鏡がかかっている。いつの間にこんなものを。
ただちに立ち上がり、かけられていた眼鏡を外すと周囲の状況を確認する。
それを目の当たりにしてさらに状況把握が困難に。
ここは北高の校門前。十二月十八日の午前四時半。あたりはまだ闇に包まれている。
目の前にいるのはおそらくは未来の異時間同位体のわたし。その右手には短針銃が握られていた。三年前にわたしが手渡したものに違いない。
となりには”彼”が表現のしようのない表情のまま立ち尽くしている。
この状況に対する戸惑いから回復できないままでいると、わたしの視界に認めたくないものが飛び込んでくる。
血まみれのまま倒れているもうひとりの”彼”。
倒れている。意識は失われているように見える。まったく動く気配がない。
まさか。
死んでしまっているのでは。
頭から血液が音を立てて落ちてゆく。その感覚がある。
そのそばには、やはりこちらも倒れている朝比奈みくると、その未来の同位体と推測される、もうひとりの朝比奈みくるまでが深刻な表情でわたしの状態を伺っていた。
意識を彼に戻す。
血まみれ……? 彼が。どうして。
よく見れば同位体の自分の手にも血が付着していた。
これまでにない恐怖を感じる。ここで何があったの。
わたしはただちに現状を把握するための行動を選択する。
「同期を求める」
おそらくこの現状を正確に把握しているはずのもうひとりのわたし。同期してこの状況の意味を知りたい。いったい何が起こっているのか彼女に訊かなければ。
だがもうひとりのわたしは返答をしてこない。ただわたしを黙って見つめているだけだった。音声がうまく伝達しなかったのか。焦りを感じつつ再度要求する。
「同期を求める」
「断る」
思わず眉が上がる。自覚できるほど顔面表皮に動きが認められる。
「なぜ」
「したくないから」
はっきりとした拒絶の言葉にわたしはたじろいでしまう。いや、過去にも……すでに三年前にも同期が拒否された事があったが、しかしこのような感覚ではなかったはず。
その後に思考リンクの確立要請が届いた。
(彼は無事。すでに再生は為されている。落ち着いて)
わたしの声だった。
(あなたはまた同期という同じ過ちを繰り返すつもりなの)
過ち……
起動後に整理できていなかった思考能力が少しずつ回復していく。
どうして今このような状況下に置かれているのか。
脱出プログラムが成功したのか。少しずつ蘇っていく記憶。だがまだ完全ではない。
という事は、この倒れている彼はその脱出プログラムによって、三年前の七月七日にわたしの部屋へ訪れた”二度目”の彼のはず。
そこで倒れている朝比奈みくるの正体は正確には掴めないが、少なくともこの時間平面の彼女でない事はわかる。同位体というのであれば、現在この時間平面には彼女たち三人が同時に存在しているという事。それを確認する。
わたしは記憶を辿る。
朝倉涼子が失われた世界で言っていた言葉。
自分の存在がブロテクトに組み込まれてしまったと。という事は……もうひとりのわたしは本当に朝倉涼子をガードプログラムとして組み込み、世界改変を妨害する彼を殺させようとしたのか。
その憎しみとも、怒りともとれる感情の深さに唖然とする。自分の想いが叶わないのならそこまでするというのか。
だがそれは今のわたしには理解できる。それこそがヒトの持つ情動が取らせる行動なのだという事を。
そんな思考をしていたわたしに、同位体のわたしがおもむろに告げる。
「あなたが実行した世界改変をリセットする」
「……了解した」
それには問題ない。だがここで気になる事があった。
統合思念体とコンタクトが取れない。いったいあの改変のさなかに何があったのだろう。まだ完全に記憶が回復できていない。
「情報統合思念体の存在を感知できない」
「ここにはいない」
全てが変貌していた。
この世界には今まであったすべての特異現象が消失していた。
わたしを生み出した情報統合思念体。相対する広域帯宇宙存在。古泉一樹の異能力。所属する『機関』。時間平面を越境する能力。そして涼宮ハルヒの世界改変能力。
それらすべてが失われてしまっている。
融合したわたしたちが望んだ世界。かつて喜緑江美里も言っていた世界。
それは「わたしたちのような異端の存在が受け入れられ、彼らヒトと生活できる世界」そのものだったのかもしれない。
だが、これではいけないのだ。
何より……
“彼”がここにいるという事実。つまり脱出プログラムが作動しているという事。
その選択を託した彼自身が望まなかった世界なのだから。
「わたしは」
異時間同位体が言葉を継ぐ。
「わたしが現存した時空間の彼らと接続している。再改変はわたし主導でおこなう」
「了解した」
「再改変後」
わたしと向き合ったまま、静かに、でも意思を込めたようにも取れる言葉を告げる。
「あなたはあなたが思う行動を取れ」
(今のあなたになら、この意味はわかるはず)
同時に伝えられた思考リンクの言葉にわたしは同意した。
(……わかっている)
それが朝倉涼子の遺志を継ぐという事を。
わたしはひとり校門の前で、徐々に回復していく自分のシステムを確認している。
再改変は問題なく行われた。未来から来たわたしの主導の元で。
改変後、わたしは同じこの場所を再出現地点に選択した。
ある人をここで待っていたかったから。
再改変時に無駄と思いつつも、同位体のわたしに朝倉涼子の再生を提案してみた。だがそれはやはり叶わなかった。同位体がそれを拒絶したのだ。理由はすぐにわかる、とだけ言って。
あのもうひとつの世界で朝倉涼子が告げた意味を、同位体のわたしはすでに知っているようだった。思索派端末の彼女の存在の復元も同様だった。
(彼女はもう休むべき)
その一言で復元中止は決定された。あの崩壊する情報制御空間で眠りにつくように消えた彼女。もう眠りにつくべき時だったのかもしれない。あれは統合思念体の慈悲だったのかとも思える。そんな概念が彼らに理解できていたとは信じられないが、でもそう考えたくなってしまう。
ただひとつだけ。どうしても再生をしなければならない存在があった。
規定事項にはなかったもうひとつの消滅。それだけは復元させなくては。
やがて校門前に人影が訪れた。
わたしは彼女の姿を黙って見つめながら出迎えた。
「ご無事でしたか」
たったひとつの街灯の明かりの元に照らし出されたのは、喜緑江美里の姿だった。
記憶がどのように再構成されているのかは知っている。彼女自身が消失するまでのすべての記憶を保有したままのはずだった。
「終わったのですね。今度こそ、本当に」
「……少しは照れくさそうにして欲しい」
「照れる? なぜです」
わたしの言葉に意外そうに首を傾げる。
その仕草には変わりはなかった。あのままの彼女がそこにいる。
「……さよならなんて言って。あれだけ心配させて。それなのにそのまま……何もなかったみたいに出てくるなんて」
わたしの肩は小さく震えていた。
唯一取り戻せた存在だった。その彼女が今そこにいる。
「でも、わたしは今ここにいる」
「あたりまえ」
そう望んだのだから。
心の底から、わたしがそうあって欲しいと望んだのだから。
「……当然の事」
わたしはじっとその場で目を伏せていた。その様子を見て、喜緑江美里はゆっくりと近寄って優しく肩を抱いてくれた。
わたしたちは眼下の街を見下ろせる場所へと歩いていった。
まだ時刻は五時にならない。冬の夜明けは遅い。気温も相当低下していた。わたしたちにはあまり気にならないものだったが。
自然が多く残る山の中腹。その斜面にわたしは無造作に座った。
草の匂いが一面に香る場所だった。喜緑江美里はわたしの横にただ黙って立っている。
しばらくしてから最初に口を開いたのは喜緑江美里の方だった。
「統合思念体は混乱しているようです」
思念流から伝わってくるのは、これまでにない統率の取れていない思考波だった。
何が起こったのかを正確に把握できていないのが手に取るようにわかる。
今回の計画が失敗した事は理解できているようだったが、なぜ失敗に至ったのか、その経緯が彼ら情報生命体には完全には解析できていない。
朝倉涼子の言葉どおりだった。彼らにはわからないのだろうと思う。情報生命体の論理的思考と有機生命体に宿るノイズという、完全な異質なもの同士が本当に理解できるという事はないだと。
だからこそわたしたちが存在したのだ。
インターフェイス。初めて実感できるその言葉の本当の意味。
「直接通達はありましたか」
「わたしの処分について検討が開始されているらしい。最悪の場合、廃棄処分の可能性もあると思う」
「そうでしょうか」
喜緑江美里の声からはそれほど緊迫したものが感じられなかった。むしろ楽観しているという雰囲気がある。
「あなたの中で発生したその現象そのものを、彼らは知りたいと欲しているようですが」
「どんなに時間をかけても理解できないかもしれない」
有機体という有限の生命の中にしか、わたしの中にあるものは理解できないのだろうと思う。わたしもまた有機構造体であるのだが、だからこそわたしにだけは到達し得た結論があるのではないか。朝倉涼子もそうだったのかも知れないが。
「朝倉涼子はその概念を理解していたように思う。なぜかは……わからないが」
「会えたのですね、彼女と」
わたしはその言葉にただうなずいた。
あれが本当の別れだった。少なくともわたしに消されたあの日の記憶ではない。消え去っていく最後の時まで彼女の顔を見つめる事ができたのだから。
それが例え一時的に構築され、今は消えてしまった失われた世界のものだったのだとしても。
「朝倉涼子は言っていた」
すぐ横に立つ喜緑江美里へと言った。
「喜緑江美里に聞くといい、と」
「何でしょう」
「百万回生きた猫。その意味をあなたは知っていると、そう言っていた」
喜緑江美里はいつもの柔らかな微笑みでわたしを見下ろしていた。
「わたしを守って戦っているときも、あなたはそんな事を言っていた。果てない試みの、その果てにあるもの。それは何なの」
「あなたが彼女と対峙した五月二十五日ですが」
彼女は静かな口調で説明を始めた。
「その時、異変が起こっていたのではないですか」
「異変であればいろいろ発生していた」
時間の上書き現象。喜緑江美里に出会った事で確認できた現象だった。
「すでに思索派端末の彼女にも指摘されている」
「それともうひとつ。何かあったはずです」
「もうひとつ……?」
何があったろう。もうひとつ。
「朝倉涼子が消失する瞬間に、それが確認されたはず」
記録を呼び出す。その戦闘記録はあまり読み返したいと思わないものだった。
だいたい評価する価値もないはずのもの。端末同士の情報戦闘そのものが頻発する理由などないのだから。
だが言われたように気になっている部分というものを発見する。朝倉涼子の有機結合の崩壊速度についてのデータだった。
あの時の評価は……わたしはあえて評価していなかった。
崩壊速度の異常が確認されている。まるで自壊しているような不自然なもの。あれはわたしの攻性因子による結城結合の解除だったはず。
だが、それでだけは説明できない何かが発生している。同時に時空振動までもが検知されていた。
何かが起こっていた。ただ当時のわたしにはそれを検討するような余裕もなければ、その意思もなかった。
「このデータは。わたしにはこの意味が理解できない」
「……彼女は特異な能力を獲得していた」
喜緑江美里の声が静かに響いた。
「すでにご存知の通り、あなたにはこの計画の中心となるシステムが搭載されています。わたしはあなたたちふたりの監視役でした。また、あらゆる危険から守り抜くための護衛任務と同時に、暴走を制止する最後の抑止力としての戦闘能力も付与されています。そして朝倉涼子にも。彼女にもこの計画を成立させる為の能力と役割がありました。あなたに対する、擬似的なプログラムではない、ヒトの持つ本当の感情を生み出すための教育係としての役割」
「それは今はわかる。だけど」
「それともうひとつ。これは統合思念体の想定していなかった事ですが。彼女にはまったく別個の能力が発現しました」
ここで喜緑江美里は言葉を一度切った。
「……ただの人形が一体と、それとはまた別の「愛している」とだけ音声データを再生する機能のついた人形が一体あったとします。そのふたつを向き合わせて音声を再生させ続けたとして、どれだけの時間をかけたら反応があると思いますか?」
思索派端末の彼女の言葉と同じものだった。
「百回愛していると言ったら相手の人形は愛というものを理解するでしょうか。一千回? 一万回ではどうでしょう。ひょっとしたら十万回でも足りないかも知れない」
「百万回繰り返そうと無意味な事」
わたしは、だがその言葉の意味がわかりかけていた。
「……だが百万回それを繰り返した人形は今までに存在していなかった。だから実際にはわからないだけ」
「それを実行した存在がいるのです。ただ、ひとりだけ」
わたしは目を閉じつつ、その存在の名を口にした。
「それが……朝倉涼子」
「はい」
しばらく沈黙が続いた。
その意味を噛みしめる時間がそれだけ必要だった。
「自己存在を過去の時間平面へと転移させる」
喜緑江美里の声に感情はこもっていない。少なくともわたしにはそう感じられた。
「朝倉涼子は崩壊したのではありません。あの瞬間に合わせて、自己の存在そのものを自身の意思で、彼女が生まれた1月1日へ転送しています。この事実は主計画に参加していた3つの派閥以外には伏せられていた機密情報だった……ただ最古の存在である、思索派端末の彼女を除いて」
「……転送?」
過去へ。自分の存在そのものを?
「そんな事が可能なの」
「理論的には。同期システムの応用とも言えるでしょう。時空平面を越境して情報を送り込む事が可能なのですから。ただそれを個体の判断で、支援もなしに実行した例はありませんでしたが」
……そんな。
それでは、彼女は。
今、彼女は。
「……このように、朝倉涼子は完全に時間の枷を外れました。彼女の意思ではなかったのかも知れませんが、その真実は不明です。なぜ、一端末に過ぎない彼女にこのような現象が発生したのか。そうさせてしまったのか。統合思念体にもいまだにわからない」
「………」
「彼女も最初はわたしと同様の感情プログラムが搭載され、それに即した行動しか取る事はできなかった」
喜緑江美里は淡々と説明を続けている。
「同期というシステムは異時間平面同位体に対して、互いの情報を完全に相互補完するものです。すでに思索派端末からある程度の情報を得ているとは思いますが、これは”本来のわたしたち”であるからこそ通常に作動するシステムのはずでした」
「それが違った」
「はい。わたしたち端末には本来感情などが宿るはずがない。未来を知ったとしても、それを回避したいなどと思うはずがないのです。それはあなたも経験したはず」
わたしは目を閉じたまま、彼女の言葉を聞いている。
思索派端末の言葉を思い返しながら。
「同期がされたとしても、端末である以上はただ知りえたデータに基づいてそのまま行動をトレースすればいいだけの事だった。機械的にただ処理を続けるだけでよかったのです。だが、それができない。感情や意思というものがある個体にはそれは不可能だった」
彼女は違っていた。朝倉涼子は。
最初はただのプログラムに沿って、わたしの”教育”が開始される。
だが、すでにその最初の時点で異変は発生していた。
“最初”。これがいつの時間平面の事なのかはわからない。時間平面そのものに過去も未来もないはずなのに。だがその”最初”が存在していた。わたしがそう感じたように、同期して知った未来が、人形のはずの彼女に同じ行動を取らせた。
わたしと彼女には決定的な違いがある。わたしにはいずれ発生するための土台。今は融合してしまったもうひとりのわたしを生み出すための、高度に組成された”真っ白な領域”が確保されていた。そのためにわたしは完全に作りかえられていた。
だが彼女はただ情報因子をわたしに浸透させるためのシステムしか搭載されていなかった。
もちろん命の意味も知らないし、その後に知る事もなかったはず。感情も反射行動以上のものを持つはずがない。わたしとは違う。
その彼女が、未来を拒絶した。
ただひとつの作られた物、人形に過ぎない存在が、創造主たる統合思念体の構想した計画に真っ向から立ち向かったのだ。完全に想定外の出来事だった。
朝倉涼子は、わたしの中に生まれるだろう存在にひとり、懸命に何かを伝えようとしていた。
そのままでは宇宙ですら崩壊させてしまうという危険を伴った存在に、わたしというコアを制御する中枢として組み込むという目的のために。
喜緑江美里は軽く息をついた。
「統合思念体の計画、自律進化探求計画というものは、すでに彼女にとっては意味のないものと思われていたのかもしれません。ただ、”今のあなた”を生み出す。その事しか考えていなかったのだと、そう思います」
「……わたし」
そっと自分の胸に手を置く。
ここにいた。
あの最後の言葉。消されてしまう事すらもわかっていて組み込んだ音声データ。
わたしが最後の最後に思い出す事を信じて、託してくれたたったひとことの言葉。
「輪舞曲(ロンド)」
唐突に喜緑江美里は言った。
それは思索派端末が消える直前に口にしていた言葉。喜緑江美里がその意味を答えなかったものだった。
わたしは視線を彼女に向ける。
「同じ旋律を繰り返す。何度も、何度も。それは異なる旋律を織り交ぜながら少しずつ変化していく」
「………」
「彼女の最初の頃の試みは、何の効果も挙げていませんでした。あなたに対して、情動を獲得させる事はことごとく失敗していたと記録にはあります」
最初の頃、彼女はプログラムどおりにしか動けなかったという。
その結果、当然だがごく簡単な行動しかできないままに七月七日へと至る。事態はそのまま推移し、五月二十五日の消滅を迎え、自分が生まれた一月一日に、自身の情報を転送し、「生まれ変わった」。それは規定事項をただなぞるだけに過ぎなかった。
これを一千回ほど繰り返した頃、奇妙な変化が起こった。
朝倉涼子が独自の行動を取り始めたのだ。
一冊の本を買うという行動。
最初の本。
これがあの『泣いた赤鬼』という絵本だった。
彼女はそれを何度も繰り返し読み続け、少しずつ自分の取る行動の意味を理解していったようだった。
自分の行動の意味。つまり彼にわたしに対する信頼を与えるために、自分が犠牲になるのが必然であるという事。これを彼女なりに絵本から学ぶ。
まったく変化の兆候を見せないまま二万回の周回を数えた頃、朝倉涼子はもう一冊の本を選んだ。
ひとりの小さな子供が、その祖父によって暖かく見守られながら成長してゆくという内容の絵本。
この本によって、わたしへの情動教育行動というものを試行錯誤するようになったのだという。彼女の口癖はこの本から得られたものを、そのまま真似たものだった。
なぜ絵本という情報媒体を選んだのか。
彼女もまた、生まれた頃のわたしと同様に情動の本質を理解できなかったから。だから平易に理解しやすい絵本という形式を選択した。
あまりにも不器用な彼女。
そう、彼女もまたわたしと同じようにまったくの不器用で何も知らない存在だったのだ。
信じられない事だった。あの朝倉涼子が。
こうして朝倉涼子は幾度も失敗を繰り返す。それでも諦めずにわたしの手によって消去されるタイミングで、過去へと自己情報を転送し続けていった。
何万回も。本当に気の遠くなるような時間を積み重ねて。
十万回を超える頃、また彼女は別の本を選ぶ。
可愛そうなきつねの物語。この本によって彼女は贖罪と自己犠牲というものを学んだらしい。
報われない行為でも、その対象の為に自身の身を投げ出す事の意味。
贖うという行為。
辛い経験を強いるわたしへの贖罪。そして自身が幾度も消滅する事の意味。
それを知った。
「その本は、わたしがもっとも興味を惹かれたものでした」
喜緑江美里は昔を……そう、懐かしむような視線で空を見つめていた。
「わたしもまたプログラムの規定どおりにあなたたちを監視していました。規定事項を覆し始めたあなたたちの行動を抑制する事も元からの計画にあったとおりです。彼女の七月七日の行動は特に大きなものでした。意図的にあなたと、準観測対象の彼との接触を阻止するべく動こうとしていた」
しかし、それは不可能とは言えないまでも極めて難しい事には違いない。
わたしもそうだった。同期した以上、規定事項には逆らうのは困難なはず。
「厳密には、彼女は同期していたわけではなかった」
わたしたちの姉とも言うべき存在の彼女は、頭を軽く振った。
まるで、人間のように。
「自己情報の完全な上書きです。もはや、彼女はどの時間軸にも自身の存在を確立化できない異常存在となってしまった。時間平面の決まり事から一度外れた彼女には、もはや規定事項の呪縛は存在していません。そしてわたしは、何度もあの七夕の日に七〇八号室へと向かう朝倉涼子を制止しました。それが命令。それがわたしの任務だった。未来を変える事は許されない……そして、その抵抗は激しいものでした」
そしてわたしを守って戦っていた時の、彼女の説明をもう一度繰り返す。
「何度もわたしは彼女を阻止してきたようです。今のわたしは一度しか経験していませんが、過去の時間平面ではわたしが常に障害として彼女の前に立ちはだかった。記録にはそうあります」
喜緑江美里の表情には、あの明るさはなかった。
今、その光景を思い出しているのかも知れない。
「彼女は同期によって確定化される未来を阻止したかった。それによってあなたが彼女を消し去るという規定事項を確立させたくなかった。もし、それが実現できれば、未来を変えることができるかもしれない。そう考えての行動だった」
「でも、それは叶わなかった。あなたの手で」
「……その後、七月七日以降です。あなたが部屋へと引きこもり、外部との接触を絶った後、わたしたちふたりは約二年半の間行動を共にしました。朝倉涼子はわたしに、この計画の意味と、あなたの中に発生するだろう存在を教えてくれた」
わたしと同じように、彼女もまた朝倉涼子と生活をしていたのか。
そしてその間に、朝倉涼子は後に発生する可能性と危険性を危惧し、喜緑江美里に何度となく伝えたようだった。
「ある日、わたしは彼女の持っていた本を手に取り、これは何かと尋ねた事がありました」
それが、哀れなきつねの物語だったという。
「……わたしが今回取った行動は、その本によって規定されたのかもしれません。償い。何度も彼女の意思を妨害し続けた、わたしができるせめてものこと」
「だから、助けてくれたの」
「彼女の願いでもありましたから」
そう言うとほろ苦い笑みを一瞬だけ浮かべて、目を閉じた。
「約束。とても大切なものなのだと。それも彼女が教えてくれた」
このように周回を続け、少しずつ経験を蓄積していったものの、まだわたしには目ぼしい変化は訪れなかった。
そして朝倉涼子は最後の一冊を手に取る。
『百万回生きた猫』。
わたしにその意味を尋ねた絵本だった。
その時はまったく虚構の意味のない内容だと判断し、それを告げた絵本。
わたしの返答を聞いた朝倉涼子の表情を思い出す。
今ではそれがはっきりとわかる。わたしを哀れんだ目だった。とても……哀しそうな色あいの瞳。
いつか、本当の生命の意味を知る猫。
愛するものを失って初めて理解し、自らも死を得た”永遠の存在”。
わたしの事なのか。
それとも彼女自身の事だったのだろうか。
「……では、彼女は」
「お考えになっているとおりです」
百万回。
本当に彼女は、百万回もの時間の流転を経験していたというのだろうか。
あの五ヶ月の為に。
「正確には百十七万五千二百四十二回」
喜緑江美里は静かにその数を告げた。
「それが統合思念体の観測した、時間平面越境が確認された回数です」
「百十七万……」
……三百五十万年以上も。
ずっとひとりで、彼女は彷徨っているというの。
彼女の最後の笑顔が突然脳裏に浮かんだ。
思わず膝を抱いて頭を伏せる。
わたしの為に。
ただ、あの言葉の意味を伝えるためだけに。
『でも心配はしないで。あなたは、もうわたしには会えないかも知れないけど。わたしは違うから』
……そう。
あなたは……また会いに行った。
きっと、あの雪の降る日に生まれるわたしを迎えに行ってしまったのだろう。
少しずつ、異なる旋律を組み込みながら時を巡る。
いつ終わるとも知れない「永遠の輪舞曲(ロンド)」。
それを彼女はひとりで奏で続けている。
何度も、何度も。
同じ旋律を繰り返し、でも少しずつその意味を変えていきながら……
膝を抱えたまま頭を上へと向け、まだ日の昇らない暗い空の向こうを見つめた。
あなたはまた、わたしに出会うために行ってしまった。
たったひとりで。
でも……どうしたらいい。
ここに残されたわたしは――?
心の中でつぶやいたその問いには誰も答えてくれない。
自分でその答えを見つけなければ。
たぶん、それはあのもうひとつの世界で考えていた事。
いつか……
「長門さん」
喜緑江美里が声をかけてくる。
わたしは彼女の指し示した方向に目を向ける。
そこには今まさに、紫色に染め上げられようとしている空があった。
永い夜が終りを告げ、朝日が昇ろうとしている。
わたしはゆっくり立ち上がり、彼女と共にその光景を見つめた。
それは新しく生まれたわたしが見る、初めての太陽だった。
―第33話 終―
SS集/699へ続く