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| 作者 | 輪舞の人 |
|---|---|
| 作品名 | もうひとつの世界で |
| カテゴリー | 長門SS(一般) |
| 保管日 | 2007-03-20 (火) 22:42:22 |
| キョン | 登場 |
| キョンの妹 | 不登場 |
| ハルヒ | 登場 |
| みくる | 不登場 |
| 古泉一樹 | 不登場 |
| 鶴屋さん | 不登場 |
| 朝倉涼子 | 登場 |
| 喜緑江美里 | 登場 |
| 周防九曜 | 不登場 |
| 思念体 | 不登場 |
| 天蓋領域 | 不登場 |
| 阪中 | 不登場 |
| 谷口 | 不登場 |
| ミヨキチ | 不登場 |
| 佐々木 | 不登場 |
| 橘京子 | 不登場 |
何かが鳴ってる。
ああ、もう。
せっかく……せっかく……会え……?
手が無条件反射で、目覚まし時計のスイッチをオフにしていた。
寝ぼけた頭でも、その動作は手馴れたものだと自己評価している。
もう何年も繰り返しているその動き。
ふふふ……かんぺき。布団の中でにんまりと笑うわたし。
……そう。それでいいの。
これでまたあの暖かい布団に……
………………
……いけない……
どれだけ時間が経った……!?
うわ。目覚まし時計を引き込んで、見たくない現実を見てしまう。
三十分も寝坊した。もう……七時三十分!?
がば、と起き上がる。つもりでいたが、そのつもりだけで終わる。
実際には、極度に低血圧なわたしは幽霊のような緩慢な動きで起き上がっていた。
そして再度、布団へと倒れこみそうに……駄目だ。
頭の中に粘土がつまってるみたい。重たい……
「むー……」
窓から差し込む朝日が眩しい。この部屋は日当たりが良すぎる。
どうして七階に部屋を決めたんだろう、うちの父親は。
このマンションの展示会に来た時、その場で、しかも現金で支払った常識外れの人だった。トランクなんか持って来るからおかしいとは思ったんだけど。
そういえば、もうずいぶん会っていない。あの過保護の子離れしない男親は、そのくせによくひとり暮らしを許したものだと思う。
再び、窓に目を向ける。あまりの眩しさに思わず顔がしかめっ面になってしまう。
本当は遮光カーテンを買ってこようとして、でもそれはある人物の妨害によって阻止されていた。そんなものを買ったら、ただでさえ乱れがちな生活リズムがどうたらこうたら……
そう言ってお説教を始める彼女。もうずっと長い付き合いのあの子のせい。
少しずつ頭が冴えてくる。そうだ。早くしないと、またその問題の彼女の襲撃を受ける事になる。それだけは避けなければ。
これ以上の醜態はさらせない。
よろよろと、まるで墓場から蘇る不景気な物体よろしく、わたしはパジャマのまま洗面所に向かう。身震いする。とにかく寒い。あの暖かい布団に戻りたかった。
歩きながらカレンダーを目で確認する。十二月十八日。もうクリスマスまで一週間という時期。まだ、眠い。
顔を洗う。歯を磨く。寝ぐせを何とか整える。鑑の向こうには、化粧っ気のない冴えない顔。もちろん、わたしの顔。少しは化粧とか、そういうのに気をつかえと彼女は言うけど。いいもん。どうせ誰も見ない顔なんだから。
それに、あの眼鏡がわたしの顔から表情を隠してしまう。彼女と四年近く前に一緒に買いにいったあの眼鏡。おかげで人との付き合いが苦手なわたしは、それをカモフラージュにして無理に表情を作らなくて済んでいる。コンタクトなんて考えもつかない。あれがわたしの化粧。人との付き合いという、異様にプレッシャーのかかる事態からわたしを守ってくれるもの。だからそれでいい。
その場で大きく息を吸う。かなり目が覚めてきたけど、体の反応がいまひとつ追いついてきてない。
朝ごはんをどうしようか。また朝食抜きでいいかな。ひとり暮らしもこれで四年近く。だいぶ荒んだこの状況にも慣れてきている。しかし、これは将来は危うい。確実にお肌年齢は平均のものよりやばい事態なっているはず。まぁいいんだけど。どうせ恋人なんかできっこない。こんな根暗なんじゃ。
そんな事を考えていると、ある人の顔が浮かび上がる。
やっぱり……そうなのかな。彼の事。
図書館でわたしに親切にしてくれた、あの人の事がずっと気になっている。今日もまた、同じクラスで彼の顔を見る事になる。
そして、その後ろの席にいる彼女の事も。
涼宮ハルヒ。とっても美人。元気があって、頭もよくって、その上スポーツ万能。楽器だって歌だってうまい。信じられない。天は二物を与えずなんて言うけど、だったら神様は何個あの子におまけをしてるんだろう。
ひるがえって我が身を省みる。なーんにも取り柄がない。その歴然とした差を思い出し、肩が自然と落ちる。
あのふたりは付き合っているわけではない。という話だが、誰がどう見てもお似合いだと思う。自覚がないだけで、もうカップルという以外に言い様がない。交わされる会話。溢れ出てくるような笑顔。こっちはそれを見て無言のままため息が漏れる。
勇気もないしなぁ。あんなふたりの間に入っていけないよ。絶対。
チャイムが鳴る。
いけない。もうそんな時間?
わたしはパジャマを脱ぎ捨てながら、叫ぶ。
「待って! 今行くから!」
聞こえるだろうか。これはいけない。本当に”来て”しまう。
脱いだものを丁寧に畳んでいるような余裕はまったくない。上下を脱ぎ捨て、ハンガーにかかったセーラー服に手を伸ばす。もう一刻の猶予も……
合鍵でカギを開ける音。ドアを開く音。
「ターイムアウトー」
あの声……今日はまたご機嫌なようで……
足音が続き、リビングに入るなり「おはよう」ではない、別の言葉がおどろおどろしく響く。
「おーそーいー」
……あの声。いつものあの声。楽しそうな、獲物に出会って舌なめずりをしている猛獣のような、あの声。振り向くと、まさにその猛獣のような笑みを浮かべた彼女がいる。
同じ北高の制服を着た女性。つまりわたしの面倒見のよい親友であり、自称監視役であり、最大の脅威でもある人物。
わたしの天敵。朝倉涼子……!
「お、おはよう。涼子ちゃん……」
冷や汗が流れるような感覚のまま言ってみる。しかし挨拶の返事はない。
代わりに戻ってきたのは死刑宣告のような響きを持つもの。
「今日も寝坊かぁ。しかもその分だと、また朝ごはん抜きと見た」
「そ、そんな事は……」
「問答無用」
不気味な笑みが顔いっぱいに広がる。
まさか、まさか。
「これはまたお仕置きが必要のようね」
彼女はおもむろに携帯を取り出す。やっぱり。それを見て顔が青ざめる。
やめて。それだけは。
「記念すべき通算百枚目。コレクションがまた増えるわ」
ひどい。今の格好は……制服の上だけ。下は……下着だけなのに。
「ふむ。今日の格好はなかなかそそるじゃない。何ていうか……ちょっとマニアック?」
「待ってよ! ひどいよ……!」
あたふたと制服を着るのだが、もともと不器用な上にこの不意打ちにうろたえている為に全然作業が進まない。
スカートに手を伸ばす。これだけは、これだけは守らなければ……!
「毎回、毎回、寝坊をしているあなたが悪い」
冷酷に宣告する彼女。
その声は本気だ。わたしは全力で手元に引き寄せたスカートで、急いで下を隠そうとして……失敗。
盛大に転ぶ。気がついたら四つんばい。これは……とんでもない格好。
まさか……こんな格好までは……
カシャリ。
携帯のカメラの音が無情に鳴り響く。
「これは……過激すぎてとても公表できない作品だわ」
彼女の分析と、それに合わせた笑い声。
わたしは床に頬をくっつけた姿勢のまま、みじめに、恨めしげな目で彼女を見上げた。
……あんまりだ。こんな生活。
「ひどいよ! ちゃんと削除してよね!」
「明日、寝坊しないでいたらね」
わたしの抗議はどこ吹く風。そう。どうせわたしが悪い。
その通りなんだけど。でも、いくら何でもあれはひどい。
「昨日、また夜更かししてたんでしょ」
「……少しだけ」
「何してたの。また本読んでたの?」
いつもの通学風景には変わりはない。わたしたちはふたり肩を並べて学校へと向かう。
もうすぐ今年も終わろうという時期。ふたりともコートを着て、マフラーも巻いて。
わたしは朝倉涼子のその質問に適当に答えた。
「まあ、そんなとこ」
本当は違う。でもそんな事まで彼女に言うつもりはなかった。
そうだ。わたしにだってプライベートというものがある。そのはずだ。
彼女がどう考えているかは知らないけど。
「明日はちゃんと起きるから。だいじょうぶ」
「でも本当に目が悪くなるよ。少し度が上がってない? その眼鏡」
「だいじょうぶだったら」
わたしは自分の眼鏡をくいと引き上げる。しかし何という過保護ぶり。自分の父親から開放されたと思えば、いつの間にか今度は彼女がその位置にいる。もうそんな暮らしが四年近く続いている。
何でも、わたしの父親と彼女の父親は古い友人らしい。しかも同じ仕事。その関係で、どういうわけか海外に赴任している者同士の娘たちふたりが、同じマンションで生活する事になってしまった。それと実はもうひとりいる。この三人の親たちはいずれも、ひとり娘を持っているという共通点でつながっているようだった。
その三人目が校門前にいた。
「おはようございます」
いつも丁寧な口調の彼女。
二年生の喜緑先輩。わたしに声をかけてくれる数少ない学校の生徒のひとりだった。
「おはよう。江美里ちゃん」
それに対する朝倉涼子の声はくだけたもの。それもそのはずでふたりとも、その父親の関係でずっと付き合いはあったのだ。わたしは今年、この学校に入学してから初めて出会ったんだけど。
「……おはようございます、先輩」
わたしも挨拶する。朝倉涼子の言うところのボソボソ声で。
どうしても緊張してしまう。人付き合いにはいつまでも慣れない。それがわたしに優しくしてくれる喜緑先輩であっても。
例外は彼女。朝倉涼子だけだった。
なぜか。
朝倉涼子と共に一年五組の教室に入る。
わたしは窓際の一番後ろの席。目立たない人間が、目立たない席に座る。おかけで誰からも注目されなくて済むのはありがたい。対人恐怖症とまではいかないけど、それでも人と話すのには相変わらず抵抗がある。困ったもんだな、この性格。
朝倉涼子は中央の位置。彼らに近い席だった。
彼ら。つまり涼宮さんと、彼。あだ名は「キョン」。
いつものにぎやかさがすでに始まっている。いつも涼宮さんの周りには人が絶えない。すぐに朝倉涼子もその輪の中に入っていった。
何がそんなに面白いのか、わたしは視線を向けるわけではないが、自然とその会話の内容を耳にしている。
その時、携帯に着信が入る。メールだ。
……どうせ、あの人だろう。
わたしは携帯を開くと受信を確認する。間違いない。あの人だ。
わたしの父親。今はどこにいるんだろう。よくわからない仕事をしている人だった。
過保護すぎて、いつまでも子離れできない、そういう人。
何が過保護かと言えば、生活費として毎月口座に振り込まれる金額があきらかにおかしい。いくら何でも、毎月五十万円も振り込む保護者がいるのか。いていいのか。
遣いきれない、という文句を言うと、だったら服を買ったらいいとか、もっといい食事をとるようにすればいいとか勝手な事を言ってくる。放っておいてって言うのに。
その上メールはこんな風に毎日届く。内容はだいたい同じ。最初の頃はテンプレートでも作っているのかと思ったが、実は毎回全文を入力しているという事が後で知らされる。
アホの人だ。絶対。
『おはよう。今日も元気かな。パパは毎日、有希の事を考えているよ。ああ心配だ。足りないものはないか。お金に困ったらすぐ言いなさい。何だったら仕送りを来月からあと十万増やそうかと考えている。日本は物価が高いからな。それと、日本ではまたいじめが頻発していると聞いた。そんなものに遭ったりしてないか。パパは心配で夜も眠れないよ。もしも。もしもそんな事があるようなら、パパはすぐに、地球の裏側からでも、宇宙の果てであろうとも、二十四時間以内に駆けつけて、そのいじめっ子に適正かつ呵責なき正統な報いをくれてあげるから安心しなさい。パパの友達には多少アル中の気はあるが、気心の知れたフォーリナー(異邦人/ここではフランス外人部隊の意)たちがいるのだ。いや、もちろん紳士の人たちだよ。ああ。しかし心配だ。あ、それと……』
最近は受信次第、最初の二行だけ読んで削除している。本当にあの人は……
そもそも、どういう交友関係を結んでいるのよ……外国で。
そんな人だから授業参観の知らせは常にわたしの手の中で抹消されている。恥ずかしくてとても呼べない。もし何かの手違いであの父親が来るような事があったら、わたしはその日、その場限りでどこかに旅立つに違いない。
今までお世話になりました。探さないでください。
……ああ、憂鬱だ。
でも、最後の一文。かならずそこに付け加えられているものがある事も知っている。
それだけは素直に受け取っていた。
『わたしはおまえを信じている』
放課後、部室棟の二階にある文芸部の部室に向かう。現在、在籍しているのはわたしひとりだけ。自動的に責任者であり部長という事になっている。今年の文化祭の出典は機関紙も何も出せなかった。事実上、開店休業状態という事。
それでも廃部処分にならないのは、生徒会の喜緑先輩がいろいろと口を利いてくれているから、という事だった。長い付き合いだから気を遣ってくれているのはわかるが、どうしてそこまでしてくれるのかは謎のままだ。
そのうち、新入部員でもきてくれるといいんだけど。積極的に人と交流できない自分が、勧誘などできないだろうし、それは望み薄か。変わらないといけないんだとわかってはいるんだけどなぁ。
寒々しい部室に入ると、古びたパソコンの電源を立ち上げる。そして家から持ってきた一枚のフロッピーディスクを差し込む。
わたしはここで本を読んでいるだけではなかった。
小説を書いている。誰にも見せる事のない、わたしだけの物語を。
高校に入ってから少しずつ書き進めてきていた。最近になってようやく終りが見えてきたその物語は、わたし自身を投影しているような、そんなお話だった。
一体の宇宙から来たアンドロイド。何も知らずに生み出された人形のような彼女。
それがさまざまな出会いを経て、感情を知り、生命の意味を知る。
最後にそれは人間になるのかもしれない。そういう物語だった。
そのアンドロイドに自然と自分を重ね合わせていた。主人公はわたしと同じで、人との付き合いがとても下手だった。それは生まれた時に、何も与えられていなかったから。
とにかく頑固で、したたかで、弱音を吐いたりはしない。自分の願望なのかも知れない。彼女のように強くなりたい、という。わたしにはそういう強い意志がない。
その彼女は自分が何の目的で生み出されたのか、なぜ何も与えられなかったのか、彼女を作った宇宙人からは教えてはもらえなかった。突然地球に放り出されたみたいに生まれてしまったアンドロイドは戸惑った。誰と、どう接していいのかわからなかった。このままでは、本当に何をしたらいいのかわからなかった。
そんな時、自分と同じアンドロイドの女性が彼女の前に現れた。
そのもうひとりのアンドロイドは主人公とは違い、とても人間らしい仕草と感情のようなものを持っていた。
「わたしがこれからあなたにいろいろ教えてあげる」
彼女は主人公にいろいろなものを与えてくれた。何の見返りがあるわけでもないのに。
主人公は戸惑いながらも、彼女の後をついていった。彼女はさまざまな出来事から主人公を守ってくれた。ふたりで生きていくのなら、これから何も怖いものはないのだと、そう言っているかのように。
でも、そんな幸せな時間は長くは続かなかった。
ある時、主人公は未来を知ってしまう。突然、豹変したような彼女が、主人公が未来に出会う事になる地球人の男の子を殺そうとするのだ。その未来では、男の子を守るために主人公は激しい戦いの末に彼女を消去してしまうとされていた。
理由ははっきりとはわからなかった。でもその知りえた未来は確実に現実のものとなるだろう事は理解できた。どうしてこんな事に。主人公はその事を彼女に聞こうと思った。でも、答えてはくれなかった。
こうして、ふたりの奇妙な共同生活はそこで終わってしまった。
何だか暗い話だな。パソコンの画面をスクロールさせながらひとりでつぶやいてみる。
でも、なぜ彼女は、主人公を裏切る事になるのに、あんなに親切にしてくれたのだろう。
自分で書いた物語なのに、釈然としないものになってしまう。何で?
でも、その疑問にはすでに解答があった。わたしはこの物語の構造に、ある別の本からヒントをもらっていた。
朝倉涼子がわたしの誕生日に必ずプレゼントしてくれる絵本たち。今年の二月で四冊目となった絵本。それらをモチーフとして、わたしはこの物語を書こうと考えていた。
その中の一冊。それは一番初めに買ってくれたものだった。
『泣いた赤鬼』
その本の筋書きはこうだ。
とても優しい赤鬼と青鬼。ふたりは仲のいい友達だった。主人公の赤鬼は、人間とともだちになりたくて仕方がなかったのだが、鬼という事で信用してもらえない。
「おいしいお茶が用意してありますよ。お菓子もいっぱい用意してありますよ。どうぞお立ち寄りください」
そんな張り紙をして村人たちが来るのを待っていたが、鬼というだけで怖がられ、誰も近寄ろうとはしなかった。
どうしたらともだちになれるだろう。悩んだ赤鬼はそこで青鬼に相談してみる。青鬼はその話を聞いて、しばらく考え込んでからこう言った。
「だったらこうしよう。僕が村人に悪い事をする。もちろん真似だけだよ。そうしたら君が出てきて、僕をやっつけてしまうんだ。そうしたら、村人たちは君を信用してくれてともだちになってくれる」
「でも、そんな事をしたら君が悪者になってしまう」
「君は村人とともだちになりたいんだろう。とにかくやってみよう」
こうして青鬼の立てた計画は実行され、成功した。村人たちは赤鬼をようやく信用してくれてともだちになってくれた。
この事を報告しようと青鬼の家に向かう赤鬼。きっと喜んでくれるはずと信じて。
でも家にはもう誰もいなかった。戸口には一枚の張り紙だけが残してあった。
『うまくいったようだね。僕はここから旅立つ事にする。なぜかって? 今こうして村人たちと仲良くなったのに、悪者になった僕がいつまでも君と会ったりしていたら、みんなが不安になるだろうから。僕はいなくなってしまうけど、いつまでも村人たちと仲良く、元気に暮らしてください。
― 君の一番のともだち、青鬼より ―』
赤鬼は、その書き置きを手にいつまでもいつまでも泣き続けた。
もう、戻ってこない青鬼の顔を思い浮かべながら。
いつまでも。
……そういう事なのだろう。このアンドロイドは、地球人の男の子に恋をした。たぶん、自分ではそれとわからずに。そして青鬼役の彼女は、それを知って、でもその計画を告げずに実行に移したのだ。
この絵本とわたしの書いた物語の大きな違いは、それを青鬼が独断で実行してしまったという事。それとその未来を赤鬼役の主人公が知ってしまった、という事。
しかも青鬼は旅立つのではない。本当に消えてしまうのだ。赤鬼の手によって。
そこでキーボードを打つ手を休める。
この話を思い起こすたびに悲しい気持ちになる。もちろん、それはこの『泣いた赤鬼』というお話自体にある「無条件の友愛」というテーマがあるからなのだが、それでも、何か違う……うまく説明できないものを感じてしまう。
それと違和感。このふたりの優しい鬼たちの行動に対する違和感が残る。
青鬼は自分勝手だ。赤鬼がそんな事を知ったら絶対に泣く事になるだろう。それを理解していない。そんな事を、本当に赤鬼が望むはずがないのに。
それと赤鬼も。もし本当に赤鬼が自分だったとしたら、それで終わらせたりしない。きっと青鬼を探して後を追うだろう。そしてもう一度、ふたりで暮らせるようにする。そうするに違いない。
もしそれが自分だったら、絶対にそうする。
この考えを元に、わたしはこの後の物語を、失われた青鬼を取り戻す筋書きに変更していた。
赤鬼はいつか独断で実行してしまった青鬼の計画の真意を知る。そしてその本当の気持ちを理解して、どんな手段であれ、青鬼を取り戻そうとするのだ。
彼女が教えてくれた、さまざまなものを手がかりにしながら。
それはどんな手段なのかと言えば……
「……まだいたの?」
気がつくと部室のドアを少しだけ開けて、朝倉涼子が覗き込んでいる。
「そろそろ帰らない? 遅くなるよ」
わたしは黙ってうなずく。データをフロッピーに保存し、それを鞄にしまう。
誰にも見られたくない自分たけの小説。もちろん彼女にだって内緒だった。
「今、行く」
「そう。それじゃ今日の晩御飯、買って帰ろ?」
彼女はにっこり笑った。わたしが大好きな、いつもの笑顔で。
もうクリスマスまで一週間。年の終りも間近に迫っている。何となく落ち着かないような、そんな空気が周囲にある時期。
わたしは朝倉涼子と商店街に立ち寄り、夕飯の買い出しをする。今日は何がいいかを訊いてくる彼女。だいたい食事は一日おきくらいで彼女が作ってくれている。いつ、誰が決めたわけでもないのだけど。
「いいかげん、自炊覚えなよ。何年も一緒にいて全然変わらないじゃない」
「いいって。別に」
わたしはスーパーの中で、彼女と並んで買い物カゴを下げている。何で同い年でこうまで違ってくるんだろう。とてもよく出来た彼女。涼宮さんともまた違う意味で人気のある人。
彼女もまた涼宮さんと同じで、成績優秀、スポーツ万能。人当たりもいいし面倒見もいい。その上でクラス委員まで務めていて、人望も厚い……それにこっちも美人だし。
そんな彼女が、どうしていまだにわたしの世話を焼くのかよくわからない。
「だって、あなたのお父様からお願いされたんだもの」
「それだけ?」
「最初はそれだけ。今は違うけどね」
大根を片手に彼女は言った。もっといいものがあるのか、品定めをしているらしい。
「今は違うってどういう事」
「放っておけないでしょ。あなたを見てたら」
ようやく選んだ大根を、わたしの持つカゴに入れながら彼女は言った。困った人ね、と言わんばかりの、そういう感じの表情。返す言葉もない。あの自堕落な生活。とても他の人には見せられるものではない。
ないのだが。
「もう四年になるのよね。最初に会った時の事、覚えてる?」
「……覚えてる」
二月一日。わたしの誕生日でもある。雪の降る日だった。
わたしが引っ越してきて初めてあの七〇八号室に入ろうとしたその時。彼女が声をかけてきたのだ。
『初めてまして。長門さん』と。
「最初は本当に何もできなかったもんね」
会計を済ませて、わたしたちはマンションに戻ろうとしていた。もう周囲は暗くなりつつある。冬の日没は早い。
「コンロを使えば焦がしちゃうし。洗濯物だって自分でできなかったし。気がついたらベランダにゴミのつまった袋が山積みだし。わたしがいなかったら、どういう中学生活だったか。想像を絶するわね」
「……もう、いいじゃない。その頃の話は」
「その頃の話じゃないわよ」
ふたりで荷物を半分半分に持ちながら、そんな会話を続けている。
彼女は眉をひそめて言った。
「今だって変わってないから、こういう話になるの」
「……お説教も変わらない」
「何か言った?」
「気のせいです」
わたしはむっつりと言い返した。もう。いつまでこんな生活が続くんだろう。
……いつまでも。
……そう。ずっと続けばいい。
その日の夕飯はおでん。彼女は冬になるとよく作る。
七〇八号室。わたしの部屋はあまり整頓されていない。ごくごくたまにだが、日曜日に朝倉涼子が”来襲”して、悲鳴をあげて嫌がる不遇な部屋の持ち主を、篭城する布団の中から追い出し、そして掃除機がけから雑巾がけまでを一緒にやる事になる。それ以外にはあまり掃除というものがされていないのが現状だった。
それでもまだこの日はマシな方だった。わたしは朝倉涼子とふたりで台所に立ち、彼女の指示どおりに材料の下ごしらえを始める。
「あいかわらずねー……包丁の使い方」
わたしが大根の皮むきをしていると、その後ろから覗き込むようにして言う。
「また指を切るよ、そんな使い方してると」
「……見られてるからうまくできないだけだってば」
「毎日握ってたらそんな事ないんだけどね」
むう。わたしは大根との格闘を続ける。大根なんて見た目どこから皮でどこから身なのかがわからない。ニンジンなんかもそうだけど。皮をむく意味あるのかな。
「面取り、できたらでいいから。わたしはダシ汁を作ってるわね。後、ハンペンとか出しといて。ほかの練り物はセットのものがあるでしょ」
「はいはい」
「はいは一回でよろしい」
むー。逆らえない。悔しい。
彼女は鼻歌を歌いながら調理を進めている。楽しいのだろうか。こんなどうしようもない人間の世話を焼くのが。そうなのかな。
迷惑に思ってないだろうか。本当は。いつも聞きたいと思って、言い出せない。
そんなわたしの気持ちとは別に、彼女の鼻歌は続いていた。
食卓でふたりで鍋をつつく。
彼女の作るおでんは確かにおいしい。ふたりきりで食べるのがもったいなく思えるほどに。
「最近、気になる事があるの」
「なに」
わたしはコンニャクをぱくつきながらあいまいに返答する。
眼鏡は曇ってしまうので外していた。確かに目は悪くなっているのかも知れない。視界が薄ぼんやりしている。
「有希ってさ」
「うん」
「彼の事見てるよね。よく」
こんにゃくが咀嚼されないまま、そのままの姿で喉を通り抜けていく。
……ああ、こんにゃくってこんな喉越しなんだ……知らなかったな。
……ってなに? なに言ってるの? 急に!
その後、盛大に咳き込むわたし。
「あーあ……よく噛まないと。喉につかえるよ」
「……そ、そういう問題じゃ……な、何を突然……」
「あら、違うの」
おでんのだし汁をお玉ですくいながら、平然とした態度の彼女。
「てっきりそうだと思ってたのに」
「な、な、何を……」
「キョンくんの事、好きなんでしょ」
朝倉涼子はにやりと笑う。
「わかってるって」
「………………ち、違うよ!」
わたしは、顔が真っ赤になるのが自覚できていた。思わず両手で頬を隠してしまう。
何で。彼女がそんな事。
「ほら、図星」
済ました顔でおつゆを飲む朝倉涼子の姿。
はめられた……こんなにも、あっさりと……!
「すぐ顔に出るもんね。嘘がつけないっていうか、素直すぎるというか」
「〜〜〜〜〜〜っ!」
わたしは下を向いたまま、もう顔を上げられない。
何で。どうしてバレたのだろうか。
……そんなにもわたしは彼の事を見ていたという事なの? 自分でも気がつかないうちに。
「まぁ、わたしだけだけどね。たぶん」
「……何が」
「気づいたのは」
「……本当に?」
かすれた小声。上目遣いで朝倉涼子をおずおずと見る。もしそんな事か周囲に知られていたら、それこそわたしは明日から学校に行けない。
ヒッキーだ。ニートだ。もうそれ以外に道はない。
「……う……その顔は、ちょっとずるいわね……」
なぜかひるんだ態度の朝倉涼子だった。
「だ、だいじょうぶよ。そんなに気にしないでも……」
「だって……」
こんなの初めてだし。自分でもどうしていいかわかんないし。だいたい、彼には涼宮さんがいつもそばにいるし。
「……本気なんだね」
彼女は言う。そうなのだろうか。自分でだってよくわかんないのに。
「何で好きになったの?」
「……それは」
ぐずぐずと言い出せない。
「その……」
「ひょっとして、一目ぼれとか」
そうはっきり言われると、ますます何も言えなくなる。きっと今は耳まで赤くなっているはず。彼女の前では何も隠す事ができない。
「……図書館」
「図書館?」
こくりとかすかにうなずく。
「……今年になって……初めて図書館にひとりで行って、貸し出しカードを作ってもらおうとして……」
その後の説明はかなり要領の得ないものになってしまった。それでも彼女は、黙ってわたしの話を聞いてくれていた。いつものからかう様子はまったくない。ただ、わたしのたどたどしい話を静かに同意しながら聞いている。
要するに、「親切な彼が、人に話しかけられなくて困っているわたしを見かねて助けてくれて、それでカードを作ってくれた」。
それだけの話なんだけど。
「……なるほどね」
彼女はうなずいた。でもそれ以上は何も言わなかった。
沈黙が降りる。
うう。何でなにも言ってくれないの。
「……ねぇ。どうしたら……いいのかな」
「んー?」
食事を再開していた彼女は、もぐもぐと煮玉子を口に含みながら何かを言った。
「んー。ろうひたらいいんらろうね」
「………………」
……駄目か。やっぱり言うんじゃなかった。彼女には。
「……どうしたいの」
「……え?」
ようやく飲み込んだのか、朝倉涼子が尋ねてきた。
「あなたは、どうしたいの?」
「どうって……」
「好きなんでしょ? キョンくんの事」
「………」
そう、はっきり言われると答えられないんだってば。
視線だけが下の方に向かってさまよう。
「それがわかれば……こんなに悩んだりしないよ」
「それがわからないと、わたしも何も言えないって」
彼女はきっぱりと言った。
「付き合ってみたい、とか。自分の気持ちをそのまま伝えたら?」
「……そんなの、言えない」
「どうして?」
「だって……彼、涼宮さんと付き合ってるし……」
「付き合ってるわけじゃないでしょ」
「そう見えるもん。お似合いだと思うし、本当に」
「じゃあ諦めなよ」
朝倉涼子は容赦なく言った。
「そう思ってるなら、仕方ないじゃない」
「………」
そうなのかも知れない。自分にはその勇気がない。無理なのだろう。
こうして話してみても、自分の意気地のなさがよくわかる。
……自分次第だとは、わかってはいるんだけど。
翌日、今度こそは寝坊をしないで、わたしは朝倉涼子と学校に向かう。
いつものように喜緑先輩に挨拶を交わし、いつものように教室へ。
そしてまたいつものように、自分の席へと向かい、座る。
ふと、彼の方に視線を走らせる。彼は座ったまま、後ろの涼宮さんと何かを話している。クリスマスの事……? その予定のようだった。何かをするんだろうか。気になる。
他のクラスの人も誘うような話みたい。古泉君……? ああ。九組の。
彼ともともだちなんだ。交友関係広いなぁ、涼宮さん。
朝倉涼子にも声がかかる。なにかを頷いているようだ。行くのかな、そのクリスマスの集まりに。ふと、わたしに視線が向けられる。なに?
ちらりと彼、キョンと呼ばれている彼にその視線が向かう。どういう事。
何かを話せという事? わたしが。
……無理だよ、そんなの。
だって何にも接点がない……事もないのか。
あの図書館の事がある。彼が覚えていてくれていればの話だけど。
もうずいぶん時間が経つ。五月も末の頃の話だし。
顔が赤くなる。まただ。わたしは視線を用意していた教科書へと向ける。最後に朝倉涼子が肩をすくめている姿が、ほんの少しだけ見えた。
結局わたしは何もできないまま、放課後の部室にいる。入るなり机に突っ伏したまま。
疲れた。なぜか今日はとても疲れてしまった。朝倉涼子の、あの意味深な視線のせいだ。
彼女は行動に移せというけど、そう簡単に実行できるくらいなら、ここまで悩んだりはしないんだよね。またため息が漏れる。ずっとこんな事を繰り返している。駄目なわたし。
しばらくそんな風にいじいじ考えていたあと、ふとパソコンの画面に目をやる。
小説はまだ続きがある。
わたしだけの部活動を始めなければ。
今は赤鬼役のアンドロイドの女の子が、青鬼がいなくなった後、どうやって暮らしていくのか、どうやって青鬼を探すのかを考えている。
どうして青鬼を探さなければならないのか、まだ赤鬼役のアンドロイドは自分でもその本当の理由がわかっていない。自分の気持ち、感情というものがよく理解できていないから。
友情? それとも少し違うのだと思う。この気持ちは、もっと……違う何か。
でも女の子同士だから、恋とか、そういうものではないだろう。アンドロイドに明確な性別があるのかわたしにはよく理解できないけど、それとはまた違う感情なのだと思う。
生まれたその時からずっと優しくしてくれた。大切な存在で、大好きな人。
……うーん。アンドロイドだから人じゃないか。ともかく、ずっと自分の事を守ってくれていた青鬼。何も言わないで、いや、言えないで苦しんだろう青鬼。
未来を知った赤鬼を苦しめない方法、それは何も言わないで、冷たく接して、そのまま消されてしまう事。それを青鬼は選んだ。
そんな青鬼を、もしも取り戻す手段があるのだとしたら。赤鬼はどうするだろう。
コンセプトはだいたい決まった。わたしは少しずつ詳細なディティールを加えていく。
そして自分に問いかける。
もし、大切な人を自分の手で消し去ってしまう未来を知ったとしたら。
あなたならどうするだろう。
もしも取り戻せるとしたなら。その手段があるのなら。
それがどんな手段であれ、使うのにためらいなど覚えるものだろうか。
わたしならどうするだろうか。
もしも、そんな青鬼が、どこかでひとりさまよっているのだとしたら。
消えてしまっているかも知れないけど、でも、その可能性がほんのわずかでもあるのだとしたら。
取り戻すだろう。もしくは……
どこであろうと、追いかけていくのだろうか。
例えば……時間を越えてでも。
さらに翌日。またまたいつもと変わらない朝。
十二月二十日。
朝倉涼子と共に学校へ。まだ眠い。昨日は家でコンビニ弁当を片手にパソコンにかじりついてたから。あの小説の続きだ。こうして部室で書き進めていた話もほとんど完成に近づいていた。たぶん、今日にも完成するだろう。
だが、その見返りは今やってきている。とにかく眠い。
朝倉涼子はそんなわたしに、ちょっとした収穫があるというような口ぶりで話し始めた。
「昨日、面白い事言ってたよ、キョンくんたち」
「どんな?」
彼が、なに? 眠いながらも耳だけは敏感に反応する。
「クリスマスに鍋パーティやるって言ってたわ」
クリスマスに鍋。どんな展開でそんな事に。
「まっとうなクリスマスパーティじゃつまらないんだって。それで会場を探してるらしいのよね」
「……会場?」
「結構、人が集まりそうなのよ。谷口くんや国木田くんなんかも誘うらしいし。それに二年生の先輩も呼ぶんだって」
「へえ」
わたしはまるっきり人ごとのように返事をした。
涼宮さんは、ちょっとばかり人とは違う視点でものごとを見ているようだ。確かに人の意表をつくという事では有名でもある。あの文化祭でも、まさか飛び入りで軽音楽部の助っ人をやるとは思いもしなかった。すごく上手だったけど。
「……で、ちょっと心当たりがあるって言ったのよ」
「どこ? 涼子ちゃんが知ってる会場になりそうな場所って」
「あるじゃない。そこそこ場所も広くて、今のところ部員もひとりしかいない、開店休業状態の部室が」
「それって……」
どう考えても、それに思い当たる場所はひとつしかない。
「文芸部の部室!?」
「そう」
彼女は満面の笑みを浮かべた。
「みんな喜んでたわよ」
「そんな、わたしに相談もなしにそんな事……!」
ただでさえ、廃部をかろうじて免れている肩身の狭い部なのに。
鍋だのパーティだの、そんな事を勝手にやってもしも見つかったら。
「だいじょうぶ」
彼女の口ぐせがはじまった。この言葉を聞くと、なぜか……本当にそうなってしまうような、そんな気がする。不思議な言葉だった。
「江美里ちゃんにもうお願いしてあるから」
「喜緑先輩に……?」
「そう。ちょっとばかりお目こぼししてもらうように、生徒会の裏の方から手を回してもらったのよ」
「ちょっと……待ってよ」
「っていうか、もう話は通ってるし。それ聞いてみんな期待してたよ」
「……ぐ……」
……そこまですでに話が進んでいるのか。
わたしは顔から血の気が引いていくのを感じる。何という手際のよさ。
「ま、そういう事で。ひとつよろしく」
朝倉涼子はわたしの肩を軽く叩いた。
「……彼と話ができる、いいチャンスでしょ」
そうか。
そういう事か。
わたしは肩をがっくりと落とした。
完全にやられた。
ここまで来た以上、もはや、彼女の手のひらの上で踊るしかないのだろう。たぶん。
授業は滞りなく行われる。
問題はお昼休み。何かが起こる。絶対に。なぜなら朝倉涼子がいろいろと手を回しているらしく、授業の合間に意味ありげな笑みと共にこちらに目くばせをしてくるからだ。何を企んでるの。
その予感は的中する。
お昼休みにあたふたとどこかへと逃げようとしていたわたしの目の前に、あろう事か、もっとも対面したくない人物が行く手を塞ぐかのように立っていたのだ。
「あー……長門、さんでいいんだっけ」
「………………」
彼、だった。
何か困ったような、そんな顔でわたしを見ている。たぶん、わたしの反応にたじろいでいるのだろう。
しかし完全に固まってしまっていた。緊張のあまりに動けない。眼球だけがかろうじて動く。
横にずれたその視界の片隅に、ひとりの悪魔がいた。絶対にあのスカートの中には、尖ったしっぽが生えている。その悪魔はにんまりと、自分の策略にはまった哀れな獲物の末路を楽しむかのような、そんな笑みを隠そうとはしていなかった。
許すまじ……朝倉涼子……!
だが、自分のかろうじて残された理性が、事態はそんな事に関わりあっている場合ではない事を告げている。いけない。
これは、我が人生最大の危機と言ってもよいのでは。
「……あの。長門……さん?」
「は、はい!?」
声は裏返ってしまってはいるものの、何とか返事だけはできた。
「な、な、何か」
「あ、いや。今度のクリスマスの集まりで、部室を貸してもらえるって話らしいんだが……」
「そ、そうです、か?」
「ああ。話を聞いてないかな」
聞いてます。というか、今日の朝に聞いたばかりです。わたしの承諾もなく、いつの間にか勝手に決められてました。
……そんな事が言えるはずもない。
ただ、こくこくとうなずく事しかできない。
「そうか。悪いな。ハルヒのヤツがまた勝手な事を言い出して。場所もないのにそんな事を急に言い出したからな」
彼は後ろで朝倉涼子と話を進めているらしい、涼宮さんに目を向ける。
「本当は迷惑だろ? こんな事」
「い、いえ」
わたしはふるふると首を振る。
「そ、そんな事は、ないです」
「そうか。すまないな本当に」
彼は自分の事のようにわたしに謝る。
「それで、朝倉とハルヒにも言われたんだが、部屋のガス栓とか、そういうのを下調べしてこいって言われてな。要は雑用係ってわけなんだが」
「……はい」
「それでこれから、ちょっとだけ部室を見せてもらいたいんだ。迷惑だとは思うんだが、大した時間はかからないと思う」
……これは。この展開は。
この絵に描いたようなシチュエーションは。
わたしは再び視線を向ける。もちろん、この謀略の黒幕だ。
朝倉涼子は片目をつむって見せただけ。どう? うまいもんでしょ、という感じで。
……もう、何も言えない。
「どうかな。今はまずいか」
「……いえ」
大丈夫です。かろうじて返答だけをして、わたしは教室を後にした。彼と一緒に。
もちろん、最後にあの人物にひと睨みしてから。
全然こたえてなかったけど。
あっという間に部室棟に到着してしまっていた。何も話す事ができないまま。
正直なところ、そのままどこかへ逃げたい気分でもあったが、すでに約束はしてしまっている。だから逃げるわけにもいかない。
彼を部屋の外に待たせて、急いで室内を片付ける。別に見られて困るようなものがあるわけじゃない。だけど、なぜかいろいろと整理しないといけないのではないか、という脅迫観念にかられてしまう。自分の部屋なんて全然片付けていないのに。
どうしよう。もうこれ以上は時間が稼げない。
ドアの向こうに、恐る恐る声をかける。
「……あの。どうぞ」
彼は悪いな、と謝りつつ部屋へと入ってきた。
ただ室内のコンセントとか、ガス栓の位置とか、テーブルの大きさとか、そういったものを見に来ているだけだった。ものの五分もあれば用事は終わってしまうだろう。
でも、ひとつの部屋でふたりきり、という状況は五分などという時間では言い表せない、わたしにとっては長いものだった。ただ、彼の姿を横から見つめているだけ。何も考えられない。
彼はメモ用紙を片手に、何かブツブツ言いながら書き込んでいる。無理矢理涼宮さんに言い渡されたというように。
どうしよう。
あのおせっかい焼きの彼女が作ってくれた時間だ。何かしたいとは思う。
自分から動かなければ、何も変わらないのに。
そんな事をあれこれ考えていると、彼がメモに全てを書き込み、それをポケットにしまう。
もう終わってしまった。本当に、これで帰るだけになってしまった。
……そう。現実というのはこういうもの。自分は臆病者で何も変えられない……
「……あのさ」
彼が何かを言った。
気がつくとこちらを見ている。
「覚えてるかな。その……ずっと前に、図書館で会った事があると思うんだ」
思わず息を呑む。
それを、彼が覚えてくれていたなんて、思いもしなかった。
「いや。覚えてないなら、それでいいんだが」
「……覚えてる」
かろうじて、振り絞った声だった。聞こえているといいんだけど。
「やっぱりそうだよな」
彼はほっとしたような声をあげた。
「いや、同じクラスのはずなんだけど、あの後、全然話す機会もなかったしな。どうもこっちを覚えてないみたいだったから。それに勘違いしてたらまずいと思ったんで、声をかけづらかった」
「そんな事はないです」
わたしは、顔が再び赤らんでいくのを自覚しながら、それでも視線を逸らさずに言った。
「……あの時は、その……わたしもずっと、お礼を言いたかった」
彼は微笑んだ。
クリスマス、よろしくな、と言いながら。
覚えていてくれた。
とても、嬉しかった。
わたしには。今のわたしには、それだけで充分すぎるほどの事だった。
本当に……それだけだった。
こうして十二月二十四日には、この部屋でクリスマス鍋パーティが開催される事が決定した。
わたしも含めて。
パソコンの画面の調子が悪い。
放課後、何かとても暖かい気持ちに包まれたまま部室に来たのだが、すでにパソコンの電源が入っている。なぜだろう。誰かがつけたわけでもないのに。
旧式のパソコンだからかな。いろいろと不具合でもあるのかも知れない。
一度、リセットすると今度は問題なく立ち上がった。
部費もろくに請求できない文芸部だった。これで壊れてしまっては贅沢にも次のパソコンを、などとは言えない。あの優しい喜緑先輩には特に。
さあ。たぶん今日で書き上げられるはず。
わたしは続きを書き始めた。
赤鬼のアンドロイドはひとりぼっちになった後、何人かの鬼たちと出会う事になった。それはやはり青鬼と同じで、とても心の優しいアンドロイドたちだった。彼女はとても長い道のりを、それらのアンドロイドの仲間たちの手助けもあって歩いていく。
それは辛いものでもあった。手助けしてくれたアンドロイドたちは、主人公を守って次々と倒れていってしまう。でもその度に、青鬼がそうしてくれたように大切なものを主人公に教えてくれるのだった。
主人公は思う。必ず青鬼になってしまった彼女を見つけ出そう、と。
その旅の最後に、とうとう彼女は自分が生み出された本当の意味を知る。
宇宙人に作られた何も知らない主人公は、地球に降ろされ、まったく未知の存在である人間との関わり合いからさまざまな知識を経て、別の何かに生まれか変わる事が期待されていたのだった。
青鬼がしようとしていた事。ほかの鬼たちが自身の存在をかけて守り抜いてくれた事。それはすべて、最後に――
――画面が再び消えてしまう。
どうして? ここまで書いたのに。もうすぐ終わるのに。
わたしはモニタを軽く叩く。何も反応はない。
画面はまっくらなままだった。何か画面の左上でチカチカ点滅している輝点がある。なんだろう。
パソコンはあまり詳しいわけではなかった。どうしよう。今日はあの小説の続きを書くのはあきらめた方がいいのかも知れない。
そう思ったとき、奇妙なメッセージが画面に映し出される。
いや、文字が勝手に流れているような……
YUKI.N>こちらでの”彼”の行動は問題なく終了している。
わたしは目を凝らす。
なに。これは。
ユキ……? わたしの名前?
YUKI.N>”彼”はあなたの指定した鍵を揃える事に成功した。
意味のわからないメッセージだった。
YUKI.N>こちらの世界も終りの時が近づいている。
YUKI.N>分岐した時間平面は統合され、その後正常な時間軸の上書きにより消失すると推測される。
こちらの世界とか。時間平面とか。
わたしの言葉ではない。いったい何が。
YUKI.N>帰還準備に移行せよ。
それを最後にパソコンは完全に沈黙してしまった。
わたしの書きかけの物語と一緒に、すべて。
校門で彼女が待っていた。
朝倉涼子。他には誰もいない。
「さ、帰ろうか」
わたしはこくりとうなずく。
しばらくふたりで他愛もない日常の会話を続ける。
今度、いっしょに映画を見に行こうとか、今年の初詣はどこがいいか、とか。
そのうちに彼女が、わたしが触れて欲しくないと考えていた話題に急転換する。
「……で。キョンくんとは何か話せたの?」
やはり。放っておくはずがない。あたりまえか。
「……別に」
「何もないの?」
「……何もない、というわけでもないけど……」
ぽつりぽつりとわたしは説明した。
彼が、ずっと図書館で会った事を覚えてくれていた。
たったそれだけの事を、時間をかけて、たどたどしく説明した。
「そう」
彼女は自分の事のように微笑んで見せた。
「良かったね」
「……うん」
何の進展もない。ただ彼と二言三言話せただけにすぎない。
それでも、わたしにとってはとても重大で、勇気のいる事だった。それを彼女は理解してくれている。
わたしをそうやってずっと見守ってくれていた。これからも、そうなのだろう。
ずっと一緒にいてくれる。
川べりを歩く。図書館も近い場所。わたしたちは冬の夕暮れの景色の中を並んで歩いていた。
気温はかなり低い。クリスマスのイルミネーションが周囲を彩っている。最近ではこういった街路樹などにも電飾灯が飾りつけられて、そこを歩く人たちの目を楽しませている。
クリスマスか。昔のとっても偉い人が生まれた日を祝うという、その日。あんまり、その人の事には詳しくないけど、誰かの誕生日を祝うのはいい事だと、それくらいにしか思っていない。わたしが生まれた時、あの過保護な父親はどんな喜び方をしてくれたのだろう。母親の顔は思い出せない。どういうわけだか、本当に記憶がない。
彼女の顔を見てみる。周囲の光景に、楽しげに目を向けていた。とても大切な人。わたしにとって、とても大切な。
こうして、橋のたもとまで来た時だった。
わたしたちはそこで立ち止まり、向かいあう。
彼女は微笑みながら言った。
「じゃあ、行くね」
お別れの時だった。
もう、その時が来てしまった。
彼女は行かなければならない。
「本当は」
朝倉涼子は明るい調子のまま言った。
「ずっと一緒にいたかったけど。それももうおしまい」
「……この世界は?」
わたしは尋ねる。
この世界は、いったい何だったの。
「ちょっとだけ、おまけしてもらったっていう感じかな」
「おまけ?」
「最後に、お別れもちゃんと言えなかったから。あなたに頼んで、わたしだけの世界を作ってもらった」
あなた? わたしがこの世界を?
「そう。ここはあなたが作ってくれた、もうひとつの世界。わたしがそうであればいいと望んだもの」
「もうひとつって」
「本来あるべき、改変された世界は規定事項に即して、平行して存在している。それは”もうひとりのあなた”の最後の抵抗というべきもの。実はあなた自身が望んだものかも知れないけれど」
「そっちの世界はどうなっているの」
「あなたの作り出した脱出プログラムは正常に組み込まれている。あとはあなたの考えていた通り、キョン君がどういう風に振るまうかにかかっているわ。でもあなたが信じたように、彼は本来の世界を取り戻すように行動するでしょう」
朝倉良子は軽くため息をついた後、感心したように言った。
「あなたが選んだだけの事はあるわね。もっとも……そのプロテクトにわたしが仕込まれてしまったのは計算外だったけど」
「なに? それ」
「もし彼が、あなたの想定するように行動するなら、たぶん、もうひとつの世界のわたしは彼を殺そうとするはず」
そんな事を。わたしが?
「”もうひとりのあなた”のした事。わたしを人質に取ったようなものね。もしも自分を融合して邪魔をするなら、あなたの大切に思う人を、わたしに殺害させる、という脅迫のような」
「……じゃあ、彼は」
「だいじょうぶ」
また、いつもの彼女の言葉だった。
「彼は守られるわ、きっと。あなたにはほかにもたくさんの仲間がいる。昔とは違う。頼る事のできる、多くの人たちがいるはずなんだから」
他の……人たち。
それはこれまで、観測対象に対して牽制するだけの存在だった他勢力の彼らの事。
朝比奈みくる。古泉一樹。
彼らを……今では信じているかも知れない自分を自覚する。
わたしはひとりではない。そう感じている。
「もうひとつの世界は、こちらと連動して平行したまま存在している。向こうが終りの時を告げれば、こちらも同時に消去される。それが今」
「こちらの世界……あなたの望んだ世界……」
この三日間を思い返してみる。
すぼらで自堕落なわたし。彼女がいなければ何もできないわたし。とても臆病で、好きな人にも声をかけられないわたし。
「……納得できない」
わたしはぼそりと言った。
「ああ……まぁそれは」
朝倉涼子は少し気まずそうな笑みを浮かべながら言った。
「これは……ほら。わたしがあなたと過ごした時間の記憶がベースになってるから。どうしても……ね?」
「……納得できない」
わたしは知らずに声に力が入るのを感じる。
「納得できるわけがない」
「……有希?」
大きく息を吸い込んで、わたしは言った。
「いつも。いつもいつもそうやって。わたしにはなにも教えないで。自分ひとりで全部勝手に決めてしまって」
体が震える。
「どうして。やっと会えたのに。またやっと出会えたのに」
彼女はあの微笑を浮かべた。困ったような微笑み。
いつも、わたしが何か間違いをしてしまったときに見せてくれた微笑み。
わたしは、その顔を見て何とか自分を抑えようとしていた。
「……わかってる」
もう、本当のあなたはここにはいないという事。
これはあの破棄されたはずのジャンクデータに封じられていた、あなたの残留情報。
あなたの欠片。
ここにはいないはずのあなたの、その記憶なのだから。
彼女は静かに言った。
「わたしが、こうして自我を持つように存在していられる時間は……もう、ほとんど残されていない」
「……うん」
「あの時、最後に”彼女”を修正したとき、あの言葉と共にあった情報のほとんどは使われてしまった。この三日間、こうしていられるだけでも奇跡といってよかった」
「………………」
「"彼女”は規定事項に定められたように、方向を修正した」
あの瞬間に、わたしが”わたし”と融合したのだという。
朝倉涼子がわたしだけに教えてくれていた最後の欠片。そのひとつの言葉。
もうひとりのわたしには、別の受け止められ方をしたまま、最後まで備わらなかったもの。
相手を理解するためのもの。異質なものを、受容し、受け入れるという事。
相手を忌避し、嫌い、自己とは相容れないものであると決め付けてしまう愚かさとは対極に位置するもの。
それを、ただ一言の言葉に含まれた概念が、彼女の頑なな意思の防壁を突き崩した。
愛、というその言葉が。
受容と赦し。これを内包した愛という概念が、もうひとりのわたしを、わたしに融合させた。わたしたちはこうしてひとつになり、彼女が成ろうとしていた、あの異質な存在への変質を引き戻した。
たった、一言の言葉が。
「……これで本来の姿とは違うと思うけど、あなたが託した脱出プログラムが正常に作動する程度には、世界は変貌しなかったものと推測できる」
「……いったい、何だったの。この計画は」
わたしが一番知りたい事だった。
「自律進化とは。わたしに託されたものとは、いったい何だったの」
「希望」
それはわたしの名前だった。
「閉塞した状況が、宇宙の誕生とほぼ同じ時からずっと続いていた。情報統合思念体はそのままでいる事に恐れのようなものを感じていたと思う。全てを知り、何もかもが自分たちの意のままに操作できると信じていた。その思念体が、この宇宙が存続していく、その無限の時間を変転を経験する事もなく、ただ停滞したまま存在していくという状態に恐怖を感じていたのかも知れない」
「………………」
「結局はわたしもあなたと同じで作られた端末のひとつにしか過ぎない。だから統合思念体の本当の考えは理解できているわけではない。でも永い時間存在し、この計画に関与し続ける事で、わたしはある程度の理解に達していると思う」
「……永い、時間?」
喜緑江美里もそう言っていたような気がする。あと、あの思索派の端末も。
どういう事。
「彼女が教えてくれるわ。喜緑江美里が」
喜緑江美里。でも……彼女も今ではいなくなってしまった。
「これから、あなたは過去からやってくる修正プログラムによって自分を取り戻す。その後に時空改変を行い、元の、あるべき姿へと修正を行う。その時には、規定事項を外れた事象は修正できるはず。だからきっと彼女も取り戻せる」
「……そうであれば」
わたしはいちるの望みをかけて言った。
「あなたも、その時に復元できるのでは」
「それは、無理」
「……なぜ」
「わたしの本体は、もう別の時間平面への移動を終了している。この時間平面には存在してはいけない」
何を言っているのだろう。
彼女はそれ以上、その事には触れずに話題を変えた。
「わたしが買ってあげた絵本、覚えてる?」
「忘れるはずがない」
「百万回生きた猫。わたしの事でもあり、ひょっとするとあなたの事なのかも知れない。それを喜緑江美里から聞くといいわ。彼女は知っているから」
そう言って、朝倉涼子はただ微笑んでいるだけだった。
哀しみのようなものは微塵も感じさせない。
「……わたしはいったい何になったの」
それが最後に残された疑問だった。
もうひとりのわたしは、観測すらもできない、異質な存在へと変貌を遂げようとしていた。
だがわたしは? この感情を持つわたしは、いったい何だったのだろう。
ただのコア。容れ物にしかすぎなかったのだろうか。
「あなたは、わたしだけが望んだものへと変わっていった」
彼女は満足そうにわたしを見つめていた。
「果てない試みの末に、ようやく生まれたあなた。統合思念体の思惑の外に誕生した。わたしだけが望んだ存在よ」
「いったい何を望んだというの」
「ヒトの持つもっとも深い情動。複雑で、恐ろしくて、でもとても素晴らしいもの。愛というもの。それを……ただそれだけを教えたかった」
宇宙を崩壊の危機を救ったのが、そのたった一言の言葉で表せる概念だったという。
その皮肉。わたしはしかし、それを笑う事などできないと思った。
その一言を理解するために、わたしたちがどれだけの努力を、犠牲を払ったのかを知っていたから。
彼女には慈しむという表情がある。それが見えた。
「もちろん、わたし自身がそれを知っていたわけではなかったけど。でも、何も持たなかった人形のあなたへ、何も持たなかった人形のわたしがそれを伝える事ができた。奇跡というのはまさにこの事ね。そして結果的にはあなたから、わたしはその本質を教えられた。とても素晴らしい事だった」
「わたしが……教えた?」
「その本質というのはね。愛とは、ただ与えるだけのもの。何の見返りも求めない、ただその存在に対する無償の行為だという事。それによって生まれる何か。それをわたしは、あなたを通じて知る事ができた。百万を越えた試みの果てに」
相変わらず、彼女の言葉のすべてが理解できているわけではない。
百万回の試みとは。
「……でも、結局は無意味な事だったのかもしれない」
わたしは言った。
「過去のわたしが送り出した修正プログラムは、あなたがそうして築いてきたすべての変化をリセットしてしまう。確かに宇宙の崩壊は防げたのかも知れないけど……」
「そんな事はないわ。あなたが生まれた日の翌日、一緒に眼鏡を買いに行ったわね」
「……覚えてる」
あの無茶なパーソナリティ確立計画というものに沿って、確かにそれは行われた。彼女が選んだひとつの眼鏡。
彼女が選んだ……?
「そう」
「まさか……」
「あなたが七月七日に、眼鏡を修正プログラムに変成して彼に渡す事は規定事項だった。だから、悪いけど内緒で仕込ませてもらったの」
ちょっとしたイタズラをした子供のような、そんな仕草だった。
「その修正プログラムは、確かにこの計画で不安定化したあなたを正常動作するように改変する。でも、その本質。わたしが時間をかけて構築したあなたのコアには影響は及ばない。保護システムが連動するように変成してあるから」
……そこまで。あなたという存在は……
「だからだいじょうぶ。わたしのした事も、あなたがこれまでに経験したいろんな事も、その末に生まれたあなたも。けっして無意味化したりはしない」
自信に満ち溢れている、いつもの彼女だった。
そして夕暮れの時は過ぎ、周囲はすでに夜を迎えようとしていた。
わたしたちは、最後の時間を向かいあったままでいる。
「……あなたとは本当にこれでお別れ」
少しだけ寂しそうに彼女は言った。
「初めて出会ってから、あの日までの五ヶ月間。とても楽しかった」
「……わたしの面倒ばかりをみていたのに。何もできないわたしの面倒を」
「それが、楽しかったのよ」
彼女はそっとわたしの顔に両手を添える。
眼鏡をゆっくりと外していく。あの日、わたしにかけてくれたのと、まったく逆の動作だった。
「もう、これはいらないね」
外した眼鏡を畳み、彼女はそれをわたしに手渡す。
「あなたはいつかプログラムではない、本当の表情を浮かべる事になるだろうから。これはもう必要ないわ」
「……本当に。もうこれで」
「うん」
また困ったような笑顔。
どうして、そうやっていつも笑っていられるの。
もう……本当に消えてしまうというのに。
「でも心配はしないで。あなたは、もうわたしには会えないかも知れないけど。わたしは違うから」
「また……そういうわからない事を言う」
視界が歪んでいく。
この時間平面の終局にきた。そういう事なのだろうか。
彼女の顔がよく見えない。
「……ふたりとも予想は外れちゃったなぁ」
何を、言っているの。
「わたしは、喜緑江美里がそばにいる時だと思ってた。その喜緑江美里は彼がそばにいる時かも知れないと言っていた」
「……何の事」
「これよ」
彼女がわたしの頬に手を触れる。
そこには、ひとつの、あり得ないものが存在していた。
頬をつたうもの。
今まで、そんなものが自分にあるとは思いもしなかったもの。
涙。
熱い水滴。
それがわたしの両目からとめどもなく溢れていた。
止められない。
ただ流れ続けている。
彼女と決別しようという、こんな時に。
いや……こんな時だから。
「……まさか、わたしが立ち会う事になるなんてね……」
そのぼやけた視界の向こうで、本当に彼女が消えていこうとしている。
何か、最後に言わなくては。
本当にもうこれで最後なのだから。
「今まで、あ……」
そっと唇に人差し指が添えられる。
「その先は」
陽炎のように、冬の夕暮れの景色の中へと消えていく彼女。
「彼に言ってあげなさい。わたしではなく」
また。
あの時のように、粒子が舞う中で彼女は消失していく。
でも今度は違う。
彼女の、朝倉涼子のその笑顔を見たままでいられたから。
「あきらめちゃ駄目よ」
あきらめるって何を……?
「彼とうまくいく事を祈ってるわ」
何で……最後まで、わたしの事ばかり気にしてるの?
どうしてそんなに……わたしの事を。
彼女は、透けるように消失していくその口で、こんな言葉を最後に言った。
――さようなら有希。大好きだったよ。
わたしの耳には、その優しい声だけが残った。
こうして。
わたしは彼女に、本当の別れを告げた。
彼女の言葉は、今のわたしには絶対だった。
だから、心の中だけでそれをつぶやいた。
――ありがとう。
(――コードの変更を確認。改変された世界は、通常の時空間へと統合される)
(コード「もうひとつの世界で」を抹消)
(この記録は、「機械知性体たちの輪舞曲 第31話 『失われた世界で』」へと変更される)
(タイトルコードの変更を確認。終了)
―第31話 終―
SS集/697へ続く