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作者 | 輪舞の人 |
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作品名 | 機械知性体たちの輪舞曲 第30話 『雪』 |
カテゴリー | 長門SS(一般) |
保管日 | 2007-03-13 (火) 22:57:16 |
キョン | 不登場 |
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キョンの妹 | 不登場 |
ハルヒ | 不登場 |
みくる | 不登場 |
古泉一樹 | 不登場 |
鶴屋さん | 不登場 |
朝倉涼子 | 登場 |
喜緑江美里 | 不登場 |
周防九曜 | 不登場 |
思念体 | 不登場 |
天蓋領域 | 不登場 |
阪中 | 不登場 |
谷口 | 不登場 |
ミヨキチ | 不登場 |
佐々木 | 不登場 |
橘京子 | 不登場 |
多くのものを失ってきた。
最初は彼女、朝倉涼子。その次には、”わたし”。
同時に彼もまた失った。
そして思索派端末の、名前も知らない彼女。
最後に。とうとうこの時に至り、喜緑江美里までをも失ってしまった。
全部、わたしの為に。
朝倉涼子の言葉を思い出す。“わたし”が七月七日の夜に、意図的に削除したあの言葉。
だがわたしは覚えている。そう。わたしもまた、あなたをそう思っている。
だから、取り戻そうと思う。何もかも失ったが、それでも取り戻す手段が今のわたしにはある。
――待ってて。今、迎えに行くから。
校門の前。ひとつだけ灯る街灯の下にわたしは立っている。
規定事項は、つまりは覆らなかったという事か。
三年前のあの七月七日。二度目にやってきた彼ら。
その時、わたしがここで時空改変を行うという事を、過去の”わたし”は知っていた。
つまり……
『同期を求める』
そう。今、この時点で同期要請が届くからだ。
わたしはそれを拒否する。これも規定事項になるだろう。
という事は。
わたしは視線を変えずに周囲を探査する。熱源反応。付近の構造物の陰に二体の有機生命体の反応がある。
彼と、異時間同位体の朝比奈みくる。
もっともふたりとも”今は”そうなるわけだが、それはつまり脱出プログラムが成功したという事なのだろう。あくまで未来では、という話。
その彼の手には、過去の”わたし”から手渡された修正プログラムがあるはずだった。
だが、今度はそうはいかない。そんなものが必要となるような世界にはわたしは改変などしないのだから。
脱出など、させない。あなたはわたしのものになる。
さあ、始めよう。
右手を上げる。空を、いや宇宙全体を掴むように。
統合思念体は、喜緑江美里の偽装に気づいただろうか。
だがもう遅い。
すべてを。
この宇宙全てを作り変える。そしてわたし自身も。
こんな世界など、崩壊してしまうがいい。
改変を、開始する。
………………
…………
……
……真っ暗な闇の中。
わたしはまだ、存在していた。
小さく、震えるように。遥かな領域の奥底で眠るようにして、まだ、いる。
喜緑江美里の消失を、この”わたし”に支配された領域の底で黙って見つめていた。
でも、何もできない。とうとう世界に放たれてしまった”わたし”の意志は強い。引き返し、喜緑江美里を救うという思考には至らなかった。それも当然なのだろう。
この時のために、”わたし”は生まれたのだから。世界を敵に回しても、というその言葉には偽りはない。
ふと、身体が浮遊する感覚。まったく周囲は闇に閉ざされている。
引き上げられるような……何が始まろうとしているのだろう。
(まだ、残っていたの)
“わたし”の声。そう。まだわたしはここにいる。
(何て頑強なコア。もうとっくに融合されたと思っていたのに)
世界とあなたとを作り変える、と言うけど。
どうするつもりなの。
(わたしから奪われたものを全て取り戻す。永遠に一緒にいられるように。でも、その前にする事がある)
“わたし”の声は笑っていた。とても暗い、何かに取り付かれたような。
……狂気。そんな言葉が思い浮かぶ。
あまりの苦しみの果てに至るという、その感情の暴走。
(狂う? そうではない。狂っているのは世界の方)
“わたし”の声には笑いと……泣いているような、そんな感情が取り付いている。
もう、止められないのか。わたしには。
(まず、全ての元凶を消去する)
何かが歪む。時空が大きく揺らぐ、という感覚。
上を見上げる。何かがある。宇宙というそのものなのか、巨大な存在を感じる。
感覚的なものでしかない。視覚映像というものではなかったが、それでもわたしは理解する。あれが、情報統合思念体という存在。
(何かわめいているようにも聞こえる)
“わたし”の声。
(どれだけの憎悪をぶつけても飽き足りない。そのまま潰れて消えてしまうがいい)
耳を塞ぎたくなる。どす黒い声が響く。
(これまで、あなたたちがそうしてきた端末たちのように。自ら生み出し、用がなければ消し去るという。その思いあがった報いを受ける時が来た)
わたしは……もう、止める事すらできない。
(消えろ)
大きな残響。時空間が激しく震えている。最後の断末魔のように。
どれだけの時間が経ったのだろう。
やがて、悲鳴のような音が始まり、絶叫へと変化し、そのうちに細く響くようなうめき声に。これは実際のものではない。彼女のイメージする、それに書き換えられている。
“わたし”はそう感じたのだろう。いや、感じたかったのかも知れない。
その手で握りつぶしているという感覚がおぼろげに伝わる。”わたし”はただ消去したかったのではない。これまでの怒りと、憎しみのすべてを叩きつけたかった。どれだけの強い感情なのだろう。朝倉涼子の生み出したもの。おそらくはヒトのそれを忠実に再現した……
いや、そうではない。
これは、本当に無から生み出された、真なるもの。作り出されたものではない。
この世界にそうあれと望まれ、生まれたのだ。
涼宮ハルヒの願望実現能力でなければ不可能とされた、無からの生成。
これが、そうなのか。
広域帯宇宙存在もその後に続いた。本来、まったく異質なそれ。接触すらもできないはずの存在に対して、”わたし”は易々とその消去を実行してしまう。異質。”わたし”が変質したその果てのもの。
時間の感覚が希薄になりつつある。もう、今のこの状態には時間という概念が消えつつあった。全てが再構築されていくその過程で、一時的にだが今、”わたし”は観測不能の特異点へと変貌を遂げつつある。
まるで羽ばたく前の蝶の、さなぎのように。
無音になった。何も聞こえない。
沈降していく。わたしは膝を抱いて丸くなったまま、再び、”わたし”の領域の奥底へと沈められていく。わたしに残されたものは、もうほとんどない。こうして思考するだけの限られたコアだけ。わたし自身の中核をなすものしかなかった。
他の記憶領域への接続はほぼ全て切断されている。少しずつ、自己存在が消失していく感覚がある。彼女の中で、そのまま融合されようとしている。
わたしなのか。それとも”わたし”なのか……
自分が失われていく。
世界も何もかもが、得体の知れない何かに変わってしまう。
わたしは……ただの器だったのか。彼女を生み出すためだけの。空っぽの容器。
だから何も与えられなかった。ずっとそうやって、この時の為に生かされ続けただけなのか。
本当に……?
では、あの朝倉涼子を救いたいという気持ちは?
彼を守りたいという、その願いは……?
記録だけの事になってしまった。
なぜ、そうしていたのか……何も考えられない。
消えていく。
その感覚だけが続いていく。
やがて、本当に”最後の底”へとたどり着いた。
これ以上の何もない、真っ暗な、光の一筋さえ見出せない虚無の底。
丸まった姿勢のままたどり着いたわたしは、今は裸のまま。本当に自己情報以外の何もない状態に置かれている。
感覚も消失しつつある。もともとこんな擬似空間で感覚というのもおかしな話だとは思うが、地面と言っていいのであれば、そこに手をつく。何も感じないような、妙なもの。
足をつき、立ち上がる。力が入らない。周囲に目を向けるが、何も存在を感じられない。ただ空間だけが広がっているような。
では上は? そこもまた、果てはない。ただ暗闇だけが広がっている。
その向こうで、まさに今、彼女は変成を遂げているのだろう。
生み出したはずの統合思念体すらも、何も予見できなかったという存在へ。
解き放たれたこの世のすべての災厄。
でも、その箱の中には、最後にひとつだけ残っているものがあったという。
それは「希望」。それは、わたしの名前。
何て皮肉な運命なのだろう。
その「希望」には、すでに何もできる事がないのだから。
永遠、と”わたし”は言った。
彼と朝倉涼子を取り戻し、共に存在する何かへと”成る”のだと。それなのに死を得る、という言葉もあった。永遠に存在するものが、死という消滅を願うという。
また、自己情報を未来へと送り出す、という言葉。
これらを解析しようにも、今のわたしではよく解らない。
他にもいろいろと彼女は言っていた。欲望。欲しいと望むという、生命の奥底に感じるだろう根源的なもの。
そして……愛、という言葉。
わたしには、理解できない。
その概念。”わたし”を通じて、いろいろと感じたものはあると過去の記録にはあるが、その中でも、”愛”というものだけは最後まで解析できた、というものがなかった。
ただ彼女は言った。
愛とは奪うものだ、と。
欲望からくるもの。それを望むもの。
その意味を知ったときに、初めて昇華される何かがあるのかも知れないが、所詮は機械知性のわたしにその全てが理解できるはずもない。”わたし”にはできたようだが。
いつまで、こうしているのだろう。
まだわたしは消えないでいる。
時間というものが無意味化しているのは理解できるが、しかし、それでも終りというものはあるはずなのに。
どうしたらいい。もうあきらめるべきなのか。
守ろうというその言葉も、今となっては実現不能の絵空事になってしまった。
口だけの決意だったという事か。これまでもそうだった。何一つ、変える事はできなかった。
所詮は人形なのだ。こんな得体の知れない何かに対抗しようというのが、そもそも間違いだったのかも知れない。何も変えられない。だが、”わたし”はそれを望まなかった。だからこうして世界は変わる。その強い意志で。
朝倉涼子はこれでどうなるというのか。生まれ変わるのか。それとも、何ものかに変質して”わたし”と共に存在し続けるのだろうか。彼もまた、そうなのか。
でも、本当にこれが、朝倉涼子の望んだ結末なのだろうか。わたしは疑問に思う。
彼女がこんな事態を望んだと?
記録にある笑顔。もうほとんど読み取れない。
だが、かろうじて接続されている情報網からひとつの断片が得られる。
『……待ってる』
わたしの言葉だった。でも、誰に言っているのだろう。
これは、個体経験のもの。あの終わらない夏の、前のわたしの最後の日の記録。
誰に?
『必ず、十二月十八日に戻ってくる。おまえを直しに、必ずだ」
……そうか。彼だ。彼の言葉だ。
わたしを抱きしめてくれた、その最後にそう言ってくれた。
だけどそれはもう無理のよう。あなたは迎えに来る事ができない。なぜなら……
そこで思考能力を少しだけだが、取り戻す。
脱出プログラム。
それを、彼に渡さなければ。
しかし、この状態でそれが叶うのか。
わたしが知りえたのは、あの七月七日。二度目に彼が来訪したその時の情報。
その時の彼が説明したのは、まだ世界は普通に存在していた、という事。ただ人物の相関関係が変化し、統合思念体や広域帯宇宙存在、超能力や別時間平面からの来訪者という特殊な存在たちが消失していた、という事。
だが、いまや”わたし”はそんな、在りきたりな世界は構築しないはず。
もはやそういうレベルで事態は推移していないのだ。プログラムをその再構築された、どんな世界かもわからない所へ侵入させたとしても、実行が叶うのか。
“わたし”に接触するしかない。この存在を賭けて、最後の抵抗をしてみたい。
今は彼女は、再構築と自身の再生の為に無防備といえる状態にあるのかも知れない。
わたし自身の能力で何ができるのかはわからないが、しかし、まだこうして思考するだけの能力は残されている。
やってみよう。
ゆっくりと、接続を開始する。
ほとんど残されていない自分の力を、最大に引き出して。
(……まだいるの、そこに)
あの声がする。“わたし”のものだった。
(本当にしぶとい。どこまでわたしの邪魔をしようというの)
押しつぶされるような圧力。わたしは膝をつきそうになる。
ほとんど何も残されていない状態のわたしと、世界すらも改変しようという”わたし”のその情報量の差。それがそのままわたしにのしかかる。
(あきらめという言葉を知らないのか)
わたしが、わたしとして存在する限りは。
(だから人形だと言われる。与えられた任務を愚直に全うしようとしているだけ。それこそ愚かしい行為)
そうではない。彼と約束をした。
(その約束は意味を成さない。これから、彼はわたしのものとなるのだから)
それを彼が望むと思うの。そんな一方的なものを。
(あなたですらそうした。可愛そうなわたし。もう消えてしまうわたし。そんなものを演じて彼の同情を引いて、体を抱かれた。そうしてもらったはず)
……そうかも知れない。だけど、あの時の気持ちは切実なものだった。
(今のあなたではなかった。あれはわたしの影響を利用した策略の一端にしか過ぎない)
そう評価されてしまえば、そうなのかも知れない。
でも、違うと思いたい。そんな気持ちだけではなかったはず。
それがうまく言語化できない。
(愛も知らない人形のくせに)
……愛。その言葉。ずっと引っかかっていた言葉だった。
どこかで聞いた事がある……思考がぼやけているせいなのか、思い出せない。
(わたしは知っている。愛とは奪うもの)
違う。
……そう思うだけ。反発しているだけなのか。
(わたしはその意味を把握した。だからこそ、こうして彼女と彼を取り戻そうとしている)
そうなのだろうか。
そういうものが愛なのだろうか。
自分の欲望に赴くままに振舞う。それが愛というものでいいのだろうか。
わからないくせに、納得ができない。何だろう。このもどかしさは。
彼女は多くの感情を経て、人間に近い存在にもなっている。また、他の存在にも共鳴する何かを持っている。
あの広域帯宇宙存在との接触の時も、彼女の言葉に助けられたという記録もあった。すべてを知り、あるゆるものを超越した、何かに変貌しようとしている”わたし”。
でも、最後のこの部分。
愛というその言葉の意味のとり方に、どうしても納得ができない。
彼女は全てを受容し、全てを知り、それらの存在を超えたものになろうとしている。
でも、たったひとつだけ。何かが足りていない。
その何か。わたしが違和感を感じる、その言葉。
愛、というもの。
それだけが、違う。そんな気がしている。
なぜ、そんな風に思うのか、それが知りたい。
わたしは……もしかしたら、知っているのか。
彼女の本当は知らない、その言葉の意味を。その概念を。
誰かから、すでに教わっているのではないのか。
(何を考えているのか知らないが)
“わたし”は苛立ったように言葉を続ける。
(もうそのまま、わたしの中で消えるといい。”わたし”の一部として)
最後の抵抗にすらならないのか。
無駄とはわかりつつ、わたしは、自分に残された最後のリソースをかき集めて、脱出プログラムを形成する。
右手に一枚の栞。それが形作られる。
(無意味な事を)
強大な圧力の中、震えるようにしてかろうじて差し出した手にある栞。
それを何とか、組み込もうとする。
しかし。
(取り込もうと思ったが、それはやめにする)
その言葉と共に破砕される右腕。
激痛だけが走る。もう、感覚などないと思っていたのに。
悲鳴が……出ない。
再び視線を戻すと、もう右腕は間接部から先、栞ごと消失してしまっていた。
(所詮はあなたは器にしか過ぎなかった。そのまま朽ちて消えるがいい)
今度は全身に衝撃が走る。構成情報が粉々に分解される感覚。
全ての情報接続が今度こそ崩壊する。
再び”わたし”の存在が消失した。もう戻ってはこないだろう。こんな無力化された残骸を相手にしている時間はないはずだった。
ひとり残された果てしない暗闇の中で、わたしは崩壊するだけの自分を見つめている。
体表が砂のように崩れ、わたしを構成する情報のほとんどが無意味化していた。
……世界は終わったのだ。
わたしもまた。
静かだ。わたしは真っ暗な夜の闇のように広がる上方部を仰ぎ見る。
……疲れた。
このまま、消えてしまうのかも知れない。それでもいいだろうか。
やれるだけの事は、した。そう思う。
でも、まだ何かが……残っている。すべて失われてしまったと思っていたのに。
からっぽになったはずの、わたしの内部情報。
いや……本当に何かが残っている。どこに? それを探してしまう。
すると、そこに欠片のようなものがひとつだけ転がっているような感覚。
最後の最後に残ったのが、こんな塵のようなものひとつだけなのか。
それも当然か。無理矢理かき集めたリソースは、あの脱出プログラムを作り出す時にすべて使い尽くしてしまったのだから。
でも何だろう、これは。
ぼろぼろのわたし。もう完全崩壊まで大した時間も残っていないのに、なぜこんな事を。
それでもわたしは確認してしまう。
詳しく調べるまでもなかった。それは、意味のない、破棄されたジャンクデータの欠片だった。
組み上げる事もできない。元のデータは、いったい何だったのだろう。
わたしはそれを自身の意識野に組み込んでみる。
………………
どうやら……言語情報だったもののようだ。でも再生はできない。
……いや、これは。復元? 何かの条件で起動している?
大した情報量ではない。それが自分で元の形へと復元していく。
そのデータ。復元されたものが「何か」を言っている。
(わた……なが……きを……)
何を言っているのだろう。でもこの音声には……
とても懐かしいものを感じる。
崩れていく自分も、今は気にならない。
集中して、もう一度それを聞く。
(わたし……な……とゆきを……)
誰の声だろう。
でも、これは知っているはずの声。
もう一度。あともう一度だけ。
(わたしはながとゆきを――……)
そこまで再生された時だった。
深い暗闇の果て。天頂に何かが見える。
幻か。こんな、最後の時に。
とうとう壊れてしまった。きっとそういう事なのだろう。
呆然と立ち尽くす、それくらいの力しか残されていない。
あの音声も、それ以上は再生できない。
無駄だったのか。わたしはいったい、何をしていたのだろう。
まだ見える。その幻。
一粒の小さな白いもの。
覚えが、ある。
もう遥かな昔になってしまった、その光景の一部。
また一粒。そしてもう一粒。空から降りてくる。
やがて一面を、その小さな結晶が覆い尽くすのを見る。
ゆき。わたしのなまえ。
これは、わたしがうまれた日の、その風景。
あの冷たい、暗い空の闇から降りてきた奇跡の結晶。
この青い星で生まれた。わたしが最初に見たもの。
最後の時に、それを見るのか。
それも、いい。
たくさんの水の結晶。それがわたしの周囲を舞う。
きれい。
わたしはかろうじて残された、ひびだらけの左腕を、あの時のように掲げた。
わたしの手のひらに一粒落ちたその時だった。
ぼろぼろの手の上で、その結晶が光っている。
……光る……?
いや、これだけではない。
降り注ぐ、その雪全てが輝きを放ち始める。
なに……? これは。
違う。
雪ではない。
さらに、白銀の光にまで光量をあげた粒は、ただ落下するのではなく、わたしを中心にして渦を巻くように動き始める。
これは……情報粒子。
何かの残留情報粒子。
浮遊する情報粒子はやがて急速に速度を上げ、渦を巻きながらわたしの背後に収束される。
まばゆい光と共に。
そして、それは結実した。
……沈黙と光がある。
ほのかに「地面」に浮かび上がる、わたしの影。
後ろから照らし出されている。
……そう。わたしの後ろに、今、ひとつの存在があった。
そっと、背後から手が伸ばされた。
光輝く、優しい温かみのある手がわたしの頬を撫でる。
その瞬間に、これまでの記憶が蘇る。
消滅したはずの、全ての個体情報が瞬時にわたしを再構成していく。
わたしがうまれた日の記憶。
頬に触れた、あの手の暖かさ。
――がんばったね。
……声。あの大好きだった声。
後ろに立つ存在を、全身で感じる。
……わたしを見ていてくれた。
ずっと、約束を守ってくれていた。
――もう、だいじょうぶ。
右腕が再構成されていく。
脱出プログラムを封じた、あの栞も。
――彼女に教えてあげなさい。
後ろから優しく抱擁されたまま、わたしは目を閉じる。
熱い何かが、溢れそうになる。
――わたしが、あなたに教えてあげた本当の事を。
今、それを思い出した。
かけがえのないあなたが、その全存在をかけて教えてくれた事。
――わたしは長門有希を愛する。
最後の最後に残されたジャンクデータ。わたしが消してしまった、あの大切な言葉。
朝倉涼子のその言葉と共に、世界は白い光に包まれた。
―終―
SS集/606へ続く