作品

概要

作者輪舞の人
作品名機械知性体たちの輪舞曲 第23話         『ふたりで川へ』
カテゴリー長門SS(一般)
保管日2007-02-18 (日) 20:18:30

登場キャラ

キョン登場
キョンの妹不登場
ハルヒ不登場
みくる不登場
古泉一樹不登場
鶴屋さん不登場
朝倉涼子不登場
喜緑江美里不登場
周防九曜不登場
思念体不登場
天蓋領域不登場
阪中不登場
谷口不登場
ミヨキチ不登場
佐々木不登場
橘京子不登場

SS

 
 

 わたしの勝ち。
 この記憶はわたしだけのものだから。

 

―ある情報端末の決意―

 
 

 無限に回帰する夏休み。この事態に”彼”らが気づいてからも、時間の巻き戻しは続いていく。
 避けられぬ「死」を繰り返しながら。
 わたしには、ただそれを見ていることしかできない。
 “彼”が言う。「死ぬのと一緒ではないか」と。
 朝比奈みくるが言う。「わたしを忘れないで」と。
 古泉一樹だけは……ただ肩をすくめて何も言わない。その態度に違和感はなかった。
 このメンバーの中で最も「演技」しているのは、彼なのだろうと、わたしは何となく確信していたから。
 たとえ死を目前にしたとしても? 実際に彼はそうしているのかも知れない。

 

 そして七千回目を迎える。二百六十八年が経過。
 途中、彼らが気づく事も多くなってきている。
 そうして気づいた彼らと共に、この閉鎖された時空間から脱出する手段の模索は続いていた。
 繰り返される消滅と再生。
 しかし周辺状況に変化はないままだった。
 彼らの混乱と絶望も、また続いていく。

 

 八千回。三百六年が経過。
 相変わらず状況に変化なし。
 ただ、あるとするなら……それはわたしの中にあった。
 さらに膨れ上がっていく、その感覚がある。
 抑える事が可能だろうか。自分で制御できるシステム面からその試みを続ける。
 汚染された領域を、自主的に廃棄する事も検討しなければならない段階に来ていた。

 

 九千回。三百四十五年が過ぎる。
 声の発生が頻発化する。
 あの声を抑えることが、もうできそうにない。
 初めて汚染領域を切り捨てる決定を下す。すでに取り戻せないのだから。

 

 とうとう一万回に達する。三百八十三年が経過。
 “彼女”は、この時すでにわたしという殻を必要としないほどに成長を遂げていた。
 自分の言葉なのか、”彼女”のものなのか、明確には区分できなくなっている。
 ある時、わたしが話したと思い込んでいた言葉が”彼女”のものだった事が後から判明。
 薄い笑い声がわたしの中で響く。

 

 ここでわたしは喜緑江美里との接触を絶つことを決めた。
 この状況を彼女に知られたくない。
 どんな思惑で配置されているか不明のままだった彼女には、全てを知られることがためらわれる。信じてはいる。だが派閥の考えは別だろうと思うから。
 彼女は私の決断に何も言わなかった。
 もしかしたら、気づいているのかも知れない。

 

 統合思念体が静観しているのも、すでに受け入れている。
 彼らはこの時間が必要なのだと判断しているのだ。
 全て、彼らの計画の中にあるという事。

 

 だが……本当にそうだろうか。
 自分たちが、予想していない事態になっているのを知らないだけなのでは。
 それとも、わたしが……この後に選択するつもりでいる、「あの行動」すらも織り込み済みなのか。
 全てが不明。

 

 一万一千回。四百二十一年。
 この頃、個体リソースのほとんどが占有されつつあった。自我領域が維持できる最低ラインにまで縮小。
 これ以上は自分が保てない。
 思考が鈍っていく。時折、自分の記憶が消失している。
 すでに自分ではないかのような、そんな行動をどこかで眺めているような感覚。
 侵食を少しでも食い止めようと、影響の出る所が少ないであろう記憶領域を徐々に放棄し、構築済みの情報網を閉鎖する作業に専念する。
 どれくらいの時間稼ぎになるのかは不明。やれる事をやるだけだと思う。

 

 一万二千回。四百六十年。
 揺らぐ自意識。ほんの一瞬でも気を許したら、すぐにも溢れ出てきそうになる。
 消え去りそうになる。いや……もうすでに消えている部分があるのかも知れない。
 とても……眠い。
 そう思う時間がほとんどを占めつつある。

 

 一万三千回。四百九十八年。
 この頃には、わたしと”彼女”との明確な区分が判断できていない。
 すでに閉鎖できるところは、ほとんど残っていない。
 わたしが、わたしでいられる時間がほとんどなくなってきている。
 もう、無理なのかも。

 

 一万四千回。五百三十六年が経過――
 リソース保持を必要最低ラインを除き全て放棄している。他は完全に失われた。
 限界……ほとんどを覚えていない。
 わたしではない。
 もう、わたしでは――(笑い声/記憶の消失を認む)

 
 

 残された僅かな時間に“彼”の事を想う。

 

 あの声は、わたしが“彼”を好きなのだと、そう指摘する。
 五月の末に発生した「閉鎖空間事件」。その時に「本当はずっとそばにいたいのだろう」と、わたしに問いかけていた。否定できない言葉だった。

 

 わたし自身は、いつからそれを意識していたのだろうか。
 初めて出逢ったのは三年前の七月七日。
 わたしの今が全て規定されてしまった、あの夏の日のこと。
 でもその時には、わたしにとっての“彼”という存在は、突然現れた謎の時間平面越境者であり、観測対象者と接触を図る、正体不明の脅威以外の何者でもなかった。
 “彼”はすでにこちらの事を知っていた。
 「長門」と名を呼ぶ“彼”の声には、わたしに対する不審を示すものは何も含まれていなかった。あるとするなら、信頼。その声には揺るぎないものが宿る。

 

 そして短冊を受け取り……以後、認識する世界の全てが変わった。
 “彼”の事も。
 朝倉涼子の事も。
 何もかも。

 

 今であれば理解できる。以来、”彼”の信頼を裏切ることは絶対にしないと自身を規定した。自分自身の意思でそう決めた。すべてを犠牲にしても”彼”を守る、と。
 そこに朝倉涼子が含まれる事も知った上で。

 

 そこまでして、ただ、そばに居たいだけ?
 しかし涼宮ハルヒや朝比奈みくるが“彼”と言葉を交わす時、言いようのない思考がわたしを困惑させる。わたしにはできない、会話や仕草、表情。それが“彼”の笑顔を誘い、ため息をつかせ、怒らせ、そして……
 わたしには、それはできない。
 それでも、“彼”のそばにいて、守り続けていくのだろうという確信はあった。
 そばに居られるだけでいい、とわたしはあの「閉鎖空間事件」の時に、自分に言い聞かせていた。ヒトではない。異質の存在のわたしが、彼に選ばれるわけがない。
 わかりきっている事なのに。
 でも、本当は選ばれたい。涼宮ハルヒが”彼”を選んだように。

 

 ……そして、“彼”が涼宮ハルヒを選んだように。

 

 おそらく、それは間違いではない。
 間違いではないと思う。わたしにも、それがわかる。
 本当はもう、ずっと前から知っていた。

 

 “彼”が好きなのは、涼宮ハルヒなのだ。

 

 ……それでも、いい。彼のそばにいられるのなら。
 だから一万五千回目を数える最初の日。
 再び巡り来るその日に、ある決意をした。

 
 

 空が紫色に染まる。
 マンションの自室の机に伏すように座り込んでいたわたしは、緩慢な動きで起き上がった。
 自分の置かれた状況を再確認した後、その変化がない事を認めてベランダへと向かう。
 窓ガラスを開け、朝の新鮮な大気を胸に吸いこんでみる。
 いつもと変わばえのない清浄な空気。
 早朝に聞こえるあの特有の響き。また朝が来た。
 日付は八月十七日。

 

 正確に一万五千回目の八月十七日。
 わたしが生まれてから、すでに五百七十八年が経過しようとしている。

 

 一日の間に覚醒している時間はとうとう四時間を切った。
 その、ほんの少しの間の”わたし”だけの時間に、決意を固める。
 今はまだ、壊れてしまうわけにはいかない。
 三年前の七月七日に送り出した修復プログラムが届くまで。
 十二月十八日に”彼”がやってくる、その日までは。
 どんな手段を使っても、絶対に。

 
 

「話がある」
 わたしは”彼”を呼び止めた。八月三十日に、あの喫茶店での解散宣言の後。
 すでに彼らは、時の無限回廊に迷い込んでいる事実に気づいている。再び絶望に包まれている、そのさなかの事だった。
「明日、付き合って欲しい」
 “彼”は怪訝な表情でわたしを見つめた。
「……何か、あるのか?」
「………」
 わたしは答えない。あなたが考えている、脱出の為の方策でも何でもない事。
 これはわたしの……我がままだと思う。
 そんな理由を言ったら、”彼”に断られてしまうかも知れない。それが怖かった。
 しばらく何かを考えているようだったが、そのうちに短くうなずく。
「わかった」
 “彼”に明日の待ち合わせの時刻を伝える。
 五月にあなたを待った、あの公園のベンチで、午前十時に。

 
 

 ――何のつもりなの。

 

 あの声には、今やわたしを支配するような脅しのような成分はまったく含まれていない。
 だからこそ、今であれば「計画」が実行に移せるのだと確信する。
 すでにわたしが完全に屈服しているのだ、という油断。そこにこそ最後のチャンスがあるのだと思う。

 

 ひとつだけ、頼みたい事がある。
 ――なに?
 明日の八月三十一日。その一日だけは、わたしに完全行動できる時間を与えて欲しい。
 ――……どういうつもり。
 わたしはもう、このままではあなたに融合されて消えてしまうだろう。
 ――そうかもね。
 だから、わたしがわたしでいられる最後の時間を要求する。それが過ぎたら、本当にあなたの思うようにすればいい。
 ――死刑囚の最後の望みみたい。
 不可能?
 ――……どういうつもりか知らないけど、生まれて六百年近く付き合った者のお願いという訳?
 ――いいわ。約束する。
 ――明日一日だけは、あなたはあなたのままにしておいてあげる。
 ――どうせ、もう何もできないのだから。

 

 言質は取り付けた。果たしてこの約束が履行されるかは判断しにくい。
 信用していいものか解らないが、他に手段は残されていない。
 ……本当は、今、この場で「実行してしまっても」いい。
 でも、最後に、どうしても――欲しいものがある。
 それが得られるのなら、後はどうなっても構わない。
 非効率的で、現実的でもなく、意味のない行動なのかも知れない。
 こんな想いを抱く日が来るとは、考えもしなかった。
 わたしは”彼”と別れた後、買い物をしに少しだけ足を伸ばした。
 明日必要になるもの。それを買いに。

 
 

 そして八月三十一日の朝。
 今までのような記憶の不明確化は検知されない。あの声は、約束を果たすつもりのようだ。
 わたしはキッチンへと向かい支度を始める。お弁当を作ろう。”彼”に食べてもらう為の。
 何がいいのかは、すでに決定していた。
 最初はサンドイッチが良いのだと考えていた。でも、必ず訪れる市民プールで、朝比奈みくるの作ったそれを頬張る”彼”の表情を見て、それはやめた。そんなにおいしいのだろうか?
 ……やっぱり、やめよう。だったらおにぎりがいい。
 すでに具材は昨日のうちに整えてある。シャケと鰹節と、梅干しだ。全部できあいのものだったけど。不器用のままなのは変わりはない、わたしはしっかりと握る。お米はササニシキ。朝倉涼子が好きだった銘柄だった。
 本当にアンドロイドのすることか。こだわりすぎる。わたしはまた彼女の顔を思い出す。もしかしたら、そんな事を思い出すのも最後かも。そんな事を考えながら両手でしっかりと握る。
 やがて完成。少しデコボコだが、味にはきっと関係ない……と思う。たぶん。
 それを六つ。”彼”がどれくらい食べるのかは解らないけど。
 他にはウインナーを、朝倉涼子の言うところの「タコさん」に仕立てて焼き、さらに玉子焼きにも挑戦してみる。
 ……どうしてうまく出来ないのだろう。コゲてしまう。さらに言うなら、うまくまとまってくれない。中に入れた砂糖がいけないのかも知れない。スクランブルエッグという事にしておこう。言わなければわからない、かもしれない。
 ……甘いスクランブルエッグというものが許されるのなら。
 よく朝倉涼子と出かける時に使ったバスケットと同じものを買い揃えてある。これに詰め込み、今度は自分の支度を始める。

 

 自分のクローゼットの中の服飾は、あまり種類が豊富とは言えない。自分で買ったものはほとんどないから。三年前に朝倉涼子がわたしを連れて買い揃えてくれたものも、今では袖を通す機会が少ないし、第一、今は夏だった。
 彼女と過ごすことはほとんどなかった季節。七月七日の初夏で終わってしまったふたりの生活だった。それでも、二着は選んでもらっている。そのどちらかにしよう。
 一つは喜緑江美里も着ていたようなワンピース。明るい、パステルカラーのブルーにワンポイントで白い花柄が映える。もう一つは孤島の合宿の時に着て行ったもの。だとしたら”彼”に見せていないワンピースがいい。

 

 着ていくものは決まった。着替えの前にシャワーを浴びることにする。
 少し温めの温度のお湯が気持ちいい。頭からかぶり、瞳を閉じる。
 流れる温水。髪からしたたる水滴。それをじっと見つめる。
 決意は変わらない。

 

 ――だいじょうぶ。うまくいく。
 自分の気持ちさえ確かなら、できるはず。

 

 ドライヤーで髪をブロー。顔にクリームを塗った後、鏡の前で薄くリップを塗ってみる。
 たぶん”彼”は気づかないだろう。特にわたしがこんな事をするなんて。
 実際にそんな自分に少し驚いている。
 朝倉涼子に教えてもらった時の記憶は、あまり思い出したくない。それは酷い顔だった。
 力の加減もわからなかった頃だったから、鏡の前にあったのはたぶんお化けと言われても仕方のない顔。その後ろでお腹を抱えて笑い転げている彼女に、わたしは振り返る。
 たぶん、あの時のわたしはそんな彼女に怒っていたと思う。
 それに気づいた朝倉涼子は一瞬だけ静かになり、何かあやまろうとしたのか言葉を選び、しかしその後には再び前のめりになって顔が上げられないでいる。
 以来、化粧などしようとも思わなかった。
 それが、今はできている。
 不思議な時間だったのだ。とても……幸せだった時間。

 
 

 待ち合わせの時間にはまだ早い。
 午前九時四十分。約束までには二十分もある。
 わたしはベンチに座ると、そのままバスケットとポッドが入ったバッグを膝の上に置いて”彼”を待った。
 五月のあの日。初めて”彼”を自分の部屋へと案内した頃とはまったく違う状況。
 セミが鳴いている。アブラゼミだろう。
 今日も暑い一日になりそう。これまでの一万五千回と同じ空気。
 だけど、違う。
 決定的に違う一日になる。わたしがそう決めたから。

 

 やがて”彼”がやって来た。
 何の用事かを伝えていなかったから、わたしの姿を見ていぶかしむような表情。
 褒めてはくれないだろう。それも何となく解っている。
 本当はそんな場合ではないのだから。
「……今日はいったい何なんだ」
「わたしに付き合って欲しい」
「それは聞いたが、何をしようってんだ」
 わたしはバッグを手に立ち上がる。
「デート」
「……何だって?」
「間違った表現ではない。一日共に行動することを、そう呼ぶのであれば」
 “彼”はわたしの言葉に何も言い返せない。当然か。明日迎える「死」。”彼”にはそれがある。
 わたしは卑怯だ。時の巻き戻しという忘却の呪縛があるからこんな事を思いつく。
 でもチャンスは一度だけ。今日を逃せば、もう次はない。
 わたしは明日には「消えてしまう」”彼”の瞳をまっすぐに見つめて、言った。

 

「あなたと共に、今日という日を過ごしたい。ふたりきりで」

 
 

 “彼”とふたり、一日を過ごすなんて初めての事。よくやっていた不思議探索でも一日そのままを共に過ごした事はない。六百年近くいて、本当に初めて。
 “彼”の戸惑いは手に取るようにわかる。まるでわたしが完全な別人のように感じられているはず。
 その上――デートなんて。
 涼宮ハルヒですらも、ここまでのアプローチをした事はないのかもしれない。
 もっとも、デートといっても知識の上で得た言語情報に過ぎない。ただ、異性同士が楽しくコミュニケートを取る、という意味合いくらいのもの。
 あの東京での「なんぱ」よりはいくらかまともな理解度。その程度のものだった。
「あのな」
 彼がわたしの後ろから声をかける。
 着いて来て、と言って振り返った矢先だった。
「なに」
「どこに行くつもりなんだ」
「川」
「川?」
 あの蝉取りで行った学校の裏山。すぐ近くに川が流れている。
 とてもきれいな場所。そういう印象が残っていた、そこに行くつもりだった。
 誰もいない場所。本当にふたりきりで過ごせると思う。
「そんな所に何がある?」
「何も」
 わたしは振り返らずに言った。
「だから、そこにした」
 “彼”はそれ以上何も聞かずに、わたしの後ろについて来た。
 混乱しているのだろう。その顔を見なくても解る。

 
 

 バスを使って、学校のそばまで。
 その後はただひたすら無言で夏の日差しの中を、山の中へと歩いていく。
 蝉の鳴き声はどんどん大きくなる。その上、真上から降り注ぐ太陽の紫外線。
 “彼”の体力は、一般的な同世代の男性平均のものと比べても大きく違いはない。
 それに比べて、わたしに対して体力という言葉自体にあまり意味はない。その気になれば、休息を取ることもなく、無限にこの山道と同じ勾配の坂を上って行けるだろう。
 だから、”彼”には配慮しなければならない。時折振り返っては様子を見る。
 黙ったまま、わたしの後ろに着いて来ていた。表情は……怒っている、という訳ではない。ただわたしに、何かを聞きたいのではないか。それがためらわれているという感じ。
「休む?」
「もうすぐ、着くだろ?」
 “彼”は初めてわたしの隣にやって来た。
「とにかく行こうぜ」
 わたしは、かすかにうなずいて並び、足を進めた。

 

 山の中を通る道路に面して、その川は流れていた。
 ひょっとしたらキャンプなどを無許可でする人間もいるかと思ったが、今、その川原には誰もいない。良かった。
 わたしと”彼”は、手近に降りられそうな場所を探して、しばらく歩き、それを見つける。
 今は十一時三十分。気温はまだ上がりそうだった。
 蝉の声と、川からの水の流れる音。このあたりを通る車両は極端に少ない。この周囲にいるヒトと端末はわたしたちだけ。
 空がとても高く、青く映る。大きな白い雲。周囲の山の緑。自然というものはとても多くの色彩によって彩られている。
 わたしの生まれた風景はただ一面の白だけだったのに。

 

 “彼”は近場の手ごろな岩を見つけると、そこに腰を降ろして大きく息を吐いた。
「疲れた?」
「まぁな」
 わたしはバッグの中から、保冷剤にくるんだポットを取り出す。その中には冷えた麦茶が入っている。パックに入れておけば、冷水からでもできる簡単なもの。それを注いで”彼”に渡す。
 その動作をじっと見つめていた彼は、ほんの少しだけ間を置いてそれを受け取ると、一気に飲み干す。
「おいしい?」
「……ああ」
「良かった」
 そう思う。”彼”の表情からいくらか固いものが取れたように見える。
 汗をぬぐうと、”彼”は座ったまま川へと視線を移した。
「子供の頃に来たかも知れない。よく覚えていないが」
「そう」
 わたしもそこから”彼”と同じものを見る。
「こうやってのんびり過ごすのは……何だかすごく久しぶりな気がする」
“彼”はそう言って、両手を後ろにつくと空を見上げた。大きい呼吸。
 その言葉はわたしには重く感じられる。その通りだからだ。
 もうあなたたちは六百年近く、平穏の時間を知らない。
 わたしも、同じ。
「……気を遣ってくれたのか」
 そうだろうか。実際には違うけど。
 わたしは、今、わたしの事しか考えていないのかも知れない。
 これはその贖罪。わたしが今できる、精一杯の事。
 こんな程度の事しかできない。
「今回……その、一万五千回目になるんだったな。無理そうか」
「おそらく」
 今回も目ぼしい成果は何一つない。結局、涼宮ハルヒの考えている本当のところが解らないままでいる。
 わたしはもう一つの事が気になっていた。最初に気づいた頃には、死を強く想起していた彼らから、少しずつそれが薄れてきている印象があるのだ。
 朝比奈みくるも、ここ数百周ほどは電話をかけてきていなかった。”彼”もそう。諦めの言葉が口に出ても、以前のような強い感情の発露はない。
 一時はわたしに掴みかかった事もあった。八千回前後の頃だったろうか。
 なぜ、おまえは黙って見ているだけなのか、と。
 今はそんな事はない。デジャヴを感じている、という事は、ほんとうにごく僅かずつではあるが、記憶が蓄積されているという事なのかも知れない。それが、今の彼らの安定に繋がっている。
「静か……とは言えないが、でも安心できる。何でだろうな」
 彼はそう言うと山を見上げ、川に視線を戻して、どれくらいかの間ぼんやりとしていた。
 安らぎ、というものを感じているのかも。

 

 わたしは、少しだけ興味があった事を実行に移す。たぶん以前ではそんな事に意味を見出していなかった事。
 サンダルを脱ぎ裾を少しだけたくし上げて、川の中に入る。さほどに広くはない。せいぜい十五m程度の幅。水深もふくらはぎを濡らす程度。それほどではなかった。
 足先には予想以上に冷たい感覚。夏でも山の水の温度はかなり低い。
「……長門?」
 わたしがどんどん川の中ほどに入って行くのを見て、後ろから心配そうにして声をかける”彼”がいた。
「あんまり奥に行くなよ」
「へいき」
 わたしは少しずつ川の中央へと向かう。ごつごつした岩を足の裏に感じる。
 痛い、と思う。でも構わなかった。何でこんな事に興味を持ったのだろう。それも解らない。でも、自然というそのものに触れ、とても気持ちがいいと思う。
「……おい、長門。あんまり行くな」
 そう言って“彼”が急いで靴を脱ぎ、わたしの元へとやってくる。たぶん、こんな行動を取るわたしを異常だと感じたのだろう。確かにそう取られても仕方がない行動。もう昔のわたしではない。こんな行動を取る情報端末はわたしの他にもう1体しか知らなかった。
 朝倉涼子。今のこのわたしを作り上げた人。もうこの世界に存在しない。
 そんな事を思いながら振り返り――バランスを崩した。あり得ない。
 ……そうでもないのかも知れない。わたしの機能のほとんどは、今、わたしの管制下になかったのだから。
 倒れる、そう思う寸前、わたしは“彼”の腕の中に抱きとめられていた。
「だいじょうぶか」
 あの時以来だった、と思う。あの夕暮れの日の教室で“彼”を見上げていた、あの時。
 わたしは何も言わなかった。言えなかった。
 ただ“彼”の胸の中で目を閉じて、体温と汗の匂いを感じていた。
 ほんの少しだけ。このままで居たい。
 六百年の中の、ほんの数分。

 

 川から上がり、川原で昼食の準備をする。
 わたしがお弁当を持って来た、と告げると、本当に彼の顔は驚愕に固まってしまっていた。
「あまり、おいしくはないかも知れない」
 わたしがバスケットを開き、その中身を見せる。
 精一杯、作ったつもりだった。それでも朝比奈みくるのものと比べれば、笑われてしまうかも知れない。けれど“彼”の為に一生懸命に作った。そのつもり。
 じっとそのバスケットの中身に視線を集中させている。やはり見てくれもよくないから、どう思われているのかが気になる。
「全部、おまえがひとりで作ったのか」
「そう」
「……ありがとうな」
 “彼”はそう言うと、大きくてデコボコしたおにぎりを頬張る。
 しばらくもごもごと頬を動かして、言った。
「うまい」
「そう」
「ああ、本当だ」
 ウインナーをつまむ。そして、あの得体の知れない「玉子焼きのようなモノ」も。
 “彼”はただ、うまいといいながら黙々と食べてくれた。
 わたしはそれを見つめながら、お茶のお代わりを差し出した。
 “彼”は四つ。わたしは二つ。バスケットの中身はきれいになくなった。
 ごちそうさま、と“彼”は言った。
 満足そうな、優しい笑顔。わたしには今はそれはとても痛く感じる。
 消えてしまう、あなたの笑顔。

 

 食べ終えてしまうと、もう何もない。
 川で遊ぶと言っても、もう高校生になる“彼”がどんな事をするのか、それも知らない。
 わたしの我がまま。ただふたりで居たいという、それだけの願望だったから。
「……どうして、ここに連れて来たんだ」
 夏の日差しはさらに強さを増す。少しだけ移動して木陰を見つけるとそこへ。
 ふたりで並んで座り、川の水と山の緑だけを交互に見比べてるだけだった。
「何か、言いたいことがあったんじゃないのか」
 “彼”の声はどこまでも優しい。
 わたしに答える事ができるのだろうか。
「あなたは、明日消失する」
「……そう、らしいな」
「わたしとこうして過ごした記憶も残らない」
「ああ」
「だから、せめてふたりだけの記憶を作っておきたかった」
 わたしは、告白する。

 

「わたしも、明日消えてしまうから」

 

 それは“彼”とまったく同じ意味ではない。
 だが、これまで積み上げた全てのものを破棄する。そのつもりだった。

 

 その頃、大きな灰色の雲が急速に接近しつつあった。
 わたしにとっての最後の思い出の時間を彩る、それがやって来る。

 
 

―第23話 終―

 
 

 SS集/542へ続く

 
 
 


トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2012-06-17 (日) 03:03:10 (2730d)