作品

概要

作者江戸小僧
作品名無時代伝奇劇 忘れる男ありけること
カテゴリー長門SS(一般)
保管日2007-01-03 (水) 13:34:46

登場キャラ

キョン登場
キョンの妹不登場
ハルヒ登場
みくる登場
古泉一樹登場
鶴屋さん不登場
朝倉涼子登場
喜緑江美里登場
周防九曜不登場
思念体不登場
天蓋領域不登場
阪中不登場
谷口不登場
ミヨキチ不登場
佐々木不登場
橘京子不登場

SS

 

  <<忘れる男ありけること>>

 

 何時とも知れないが、闇が都をも跋扈していた時代の話である。

 
 

   <壱>

 

 その邸は、都の北東にあった。周りには身分の高い貴族の邸はない。むしろ、寂れていると言っても良いだろう。
 狩衣を少々だらしなく着た男が、この邸の門を通った。身なりからして貴族のようだが随身の者達が見当たらない。そういえば、門の外に車がある気配もない。徒歩で、しかも独りでここまで来たのだろうか。
 男は一瞬目を細めて邸を見回すと、足を左に向けて先に進む。
 男が向かった先には、この邸の庭があった。都の邸が通常そうであるような手入れは何もされていないように見えるが、何故かまとまった雰囲気のある庭である。
 男の足が止まった。
「遅いよ」
 縁側に、十二単を着た女が男に笑いかけていた。碧く陽を反射する黒髪は腰ほど、顔に粉をつけず、眉は凛々しいほどに太かった。
「すまん、所用でな。あいつはまだか」
 男はそう言うと、縁側の簀に腰掛けた。
 男に声をかけた長髪の少女が左手の指を組み合わせて口の中で何か呟く。
 と、座った男の横に湯気を立てる湯呑が現れた。
「彼女、もう少しかかると思うから、それまで私がお相手するわ」
「まさか、厄介なことなのか?」
「心配なの?」
 女は笑った。髪を手で梳くと、芳しい香りが辺りに漂う。
「大丈夫。あなたが今ここにいることはわかる筈だし、行者だって今の彼女をそんなに長く引き止めてはおけないわ」
「そうか」
 男は目を庭に向けた。僅かに梅の木に蕾が見える。
 二人はそれぞれの湯呑に口をつけた。
 まだ冷たい風が、庭を通り過ぎる。葉のついていない木々が微かに揺れた。
「ね」
 女が男に顔を寄せた。碧い髪が男の頬をくすぐる。
「なんだ」
「あなた達、どうやって知り合ったの?」
「何の話だ」
 女は目を輝かせた。
「帝に近しい立場の貴族であるあなたと、都じゃ皆が目を合わせることすら避けようとする呪術師の彼女と、何が縁でしょっちゅう一緒にお茶を飲むようになったの?」
「む、むう」
 男は頬を紅くして、庭を睨みつけた。
「話したくないの?」
「そんな訳ではないがな」
 男はなおも庭を睨みつける。
「話してくれたら、彼女の昔話をしてあげるわよ」
「ほ、本当か?」
「教えてくれる?」
 男は暫く考え込んだ。
「あいつには秘密だぞ」
「あら、そんなすごい秘め事だったの?」
「いや、その…あいつに黙っていることがあるのだ」

 
 

   <弐>

 

「きょん、どうにかしなさい!」
 帝の声は、あるいは内裏中に轟いたかもしれない。
 呼ばれた男は呆れたような色を滲ませて帝に目を向けた。帝と相対しているにも関わらず、狩衣を着崩している。
「はるひ。俺に何をしろというんだ。わかるように説明しろ」
 時の帝、はるひは目の前の男に指を突きつけた。
「ちょっとあんた、何他人事みたいな顔してんのよ。あいつ、あたしの大事にしてる櫛を取りにいった癖に忘れてったのよ! わかってる?」
 きょんと呼ばれる男は平然とした視線を返す。
「で、俺にどうしろと言うんだ。さっきから聞いてるが」
「それ以来、何だか知らないけど邸に閉じ篭っちゃってんのよ。だから、何とかしなさい!」
「櫛は手元にあるんだろう」
 帝の眉が跳ね上がった。
「いいからあいつの忘れ癖と引き篭もりを何とかしなさい! こんな事がまたあったら、逆さ磔にしてやるんだから」
「はいはい」
 男は逃げ出すようにして退出した。
 内裏を抜けると、きょんと呼ばれる男に近寄る影があった。
 狩衣を隙なく着こんだ男である。
「なんだ、検非違使の長も俺に説教か、古泉」
「いいえ。そんな、滅相もありません」
 二人は歩みを止めずに話し続けた。
「帝はこの事ではあなたの持ち帰った結果にしか興味を示さないでしょう」
「そりゃ、さぞかし大変なこった」
 古泉は目を細めた。
「わかってください。彼を貶めたいと思う者達を止めるには、あなたが何かを掴まなくてはいけないんです。我々が動けばその内容は全て都中に伝わってしまう」
 春らしい日差しの青空を見上げ、きょんと呼ばれる男は息をついた。
「わかってる。あいつをわざわざ貶めたいと願う奴らに手を貸してやる気はない」
 帝への拝謁を終えた男は内裏から都の南西へと向かった。
 やがて車はある邸に着いた。車を車宿に入れる一方で他の者が侍所に向かい、男の到着を伝える。
「なんだ、お前か」
 直衣を身に着けた男が渡廊より男に声を掛けた。
「大丈夫か、谷口」
「うむ、まあ」
 直衣の男はきょんと呼ばれる者を邸内へと導きいれた。
「で、どうした」
「ああ」
 二人は手に杯を持っていた。
「なあ、谷口」
「……」
 きょんと呼ばれる男は相手の目を見据えた。
「お前、最近忘れ物が多いそうだな」
 杯を口に運ぶ谷口の手が止まった。
「詳しく話してくれないか」
「う、うむ」
 きょんと呼ばれる男がその邸を出たのは、陽が暮れてからであった。
 牛が車を牽いてゆき、軋み音をさせながら都の中を進んでいく。
 と、車が止まった。
「どうした」
 男は随身の者に声を掛けた。
「あなや」
「あれに見えるは鬼ぞ。とく逃げませ」
 男は車の御簾を上げた。
 見ると、陽が落ちて暗闇となった路の先、闇よりも黒いなにものかが見える。
「おい、しっかりしろ」
「ひいいい」
 随身達は逃げ出すこともできず、ただ車の周りで腰を抜かしている。
「むう」
 黒いものが、近づいてきた。
「あ、あなや」
「わ、我らを食らう気か」
 男は黙って腰の太刀を抜き、正面に構えた。
 それは漂うように近づいてくる。
 と。
 突然、消え失せた。
「これは」
「御仏の加護ぞ」
 男は周りに目をやった。自分達以外の者は見えない。
「むう…」
 男は随身を叱咤して、己の邸へと戻った。

 
 

   <参>

 

 きょんと呼ばれる男の車が、都の北東にある邸の前で止まった。
「着きました」
 怯えたような随身の声を聞いて、男は車を降りる。
「こ、ここにございます」
 男は随身を見やった。
「怖いのか?」
「い、いえ」
 男は溜息を漏らした。
「ここで待っていてくれ」
 そう言いさして、男は邸の門を潜る。
 門の先は、まるで破れ寺のように草木が好き放題に繁茂していた。それでいて、建屋は明らかに掃除が行き届いている。
 男は躊躇う様子を見せず、正面の渡廊に足を向けた。
「誰ぞおるか」
 どこからも応えはない。男はもう一度声を上げた。
「ここは呪術師の邸と聞いた。用があって訪ねてきた。誰ぞおらぬか」
 都の貴族の邸であれば車宿がある辺り、男の左の叢が音を立てた。
「どなた様でしょうか」
 顔を向けてみると、黄色い唐衣を着た女が叢の中に立っていた。枯葉色の髪は腰までもないが柔らかそうに顔を包み込んでいる。粉を塗らず、眉も描いてないが、見ただけではまだ童なのかそれとも大人なのか、果たして身分が高いのか低いのか、男には全くわからなかった。
 つい、丁寧な物言いになる。
「あー、ここに都随一の呪術師がいると聞いて来ました」
 聞いている女は首を傾げるようにする。まるで、仔犬が飼い主を見上げるような仕草であった。
「俺は…そう、都ではきょんと呼ばれています」
 女は白い右手を上げると、何かを聞くようにそれを耳にあてた。やがて、男に目を向けて微笑んだ。
「はい、わかりました。こちらにどうぞ」
 男は女の後について、まるで獣道のような叢の合間を縫っていった。草ばかりでなく木々もまるで好き勝手にあるように見える。しかし、男は、まるで入念に手入れがされているようなまとまりをも感じるのだった。
「そちらです」
 見ると、人が簀に座る姿が見えた。
 白い水干を着て、色の薄い髪には何も被っていない。手に書簡を持ち、一心に読みふけっているようである。
 男が近づいても顔を上げようとしない。
「あー、あんたが呪術師か」
「そう」
 高く澄んだ声が応えた。やはり、顔を上げない。
「実は、相談があってきた」
 顔が上がった。色の薄い髪が優しく揺れる。かなり短いらしい。抜けるように白い肌、黒檀のような瞳。
 そして、男は気が付いた。
「女、か」
 童よりも短い髪と水干姿で気が付かなかったが、改めて見れば目の前で簀に正座するのは、美しいと言っても良い若い女であった。先程の女と同様に粉も塗らず、眉も抜いていないが、その顔立ちは噂にならぬのが不思議な程整っていた。
「なに?」
「あ…ああ」
 男は頭を振った。
「実は、俺の知り合いのことだ」
 男は男装の呪術師に説明を始めた。
 谷口という男、最近になって忘れ物が多い。己のものを忘れるだけでなく、預かり物をどこかに忘れてきてしまう。供の者に言いつけて気をつけさせても、何故か同じように物忘れをする。時には、行っていない筈の場所に忘れ物をすることすらあった。 
 先日、帝の依頼した櫛を宇治の職人の家にまで取りに行った。無理をすればその日のうちに帝に届けることもできたのだが、都に戻った時には刻も遅かったのでこの男は敢えてそれを一晩家に置くことにした。
 その晩。何も起こらぬようにと谷口は寝ずに櫛を仕舞った箱を見張り続けた。自身は箱の前に座り、家人達にも寝ないように言い含めてある。
 やがて、夜も更けた頃。
 天井で、なにやら音がする。鼠が走るような音ではない。まるで、何かを引き摺るような音だ。
 谷口は上を見上げた。
「あなや!」
 天井より、黒く長いものが降ってきた。
 半ば無意識に跳び退る男の前で、箱に黒いものが覆いかぶさる。それは、長い黒髪であった。
 髪は生きているように蠢き、箱を完全に包み込んだ。
 男は声も出ない。
 どれだけ時間が経っただそうか。男が声を出せるようになった時には、箱も髪も消え失せていた。
 翌日、箱は宇治の職人の元にあることが判った。
 谷口はこの夜の顛末を帝には話さず、と言って誰に相談もできず、己の邸に引き篭っていた。
「と言う訳なのだ」
 少女はきょんと呼ばれる男を真っ直ぐに見つめた。
「座って」
「ああ、じゃ、お邪魔する」
 簀に座る男の許に、先程の枯葉色の髪の女が湯呑を差し出した。
「その男は自分でここに来る決心をしていない」
「ああ。そうだな」
「あなたは何故私に助けを請う?」
 男は戸惑った顔を呪術師に向けた。
「それは…仲間だからだ」
「政のためではなく?」
「ああ。そのことか」
 きょんと呼ばれる男は溜息をついた。
「そうだな。都で仲間ということは政において同じ側に立っていることも意味している。敵の側にいれば、仲間にはなれない」
 きょんと呼ばれる男は呪術師の瞳を真っ直ぐ見つめた。それは、冬の夜空のように冷たく、また氷のように透き通ったものだった。
「政に巻き込むのか、という事なら、そのつもりはない。ただ、都に住まう呪術師として、奴を助けて欲しい」
 見つめる黒檀の瞳の輝きが増したように男は思った。
 そのまま暫く短髪の少女は男を見つめていたが、やがて、口を開いた。
「条件がある」
「なんだ。言ってくれ」
「あなたの名が知りたい」
「名?」
「そう」
「俺は…」
「通り名でなく、あなたが己を呼ぶ名」
「むう」
 きょんと呼ばれる男は腕を組んだ。
「それが条件」
「なあ、他の条件では駄目なのか。俺が通り名しか使わないのは、使わないのではなく使えないのだ。実は…」
 呪術師はそれを遮った。
「聞いても、人の前であなたを名で呼ぶことはしない」
「では、何故だ」
「あなたがここにいる理由が判るから」
「理由なら先程言った通りだ」
「そうではない。あなたが私の邸に来た理由ではなく、あなたがこの地にいる理由」
「すまん。さっぱり分からん」
「私は天地の理に生きる。都人と同じ物の見方はしない」
「う、うむ」
 男はもう一度白皙の小さな顔にあるその目を覗き込んだ。先程と変わらずに透き通るような瞳が男を映している。
「よし、わかった」
 きょんと呼ばれる男は頷いた。
「俺は、政に巻き込まないと言う俺の言葉を信じて貰いたい。だから、お前が俺の名を他人の前では呼ばないことを信じるぞ」
 呪術師の髪が縦に揺れた。

 
 

   <四>

 

 その夜である。きょんと呼ばれる男と呪術師は、男の車で谷口の邸の外にいた。
「なあ、何がわかるんだ」
「その時に分かる」
 もう何回も繰り返されている問答だった。
「しかし、今日のあいつは預かり物をしていないぞ」
「大丈夫」
 このやりとりも、既に繰り返されている。
 やがて、邸の方から微かな音が聞こえてきた。紙を振り回すような、乾いた音だ。
 呪術師が黙って車から降りた。男もそれに続く。
「何だ?」
 少女が邸の上を指差した。
 良く見ると、闇に溶けるような黒い鳥が何羽も飛んでいる。烏であるかどうかは、この闇夜ではわからない。その鳥達が、邸の寝殿の辺りを低く旋回しているのだった。
「あれは何だ」
 呪術師は応えずに懐より紙片を取り出し、指でなぞりながら口中で何かを呟いた。
 きょんと呼ばれる男は、その真剣な横顔を黙って見つめる。
 呪術師が紙片を夜風に流すように手から離すと、紙片はそのまま塀を越えて邸の屋根へと漂っていく。
 邸の屋根にふわりと落ちた時、それは白い猫に変わっていた。
 猫は軽やかに屋根を寝殿へと伝っていき、上の鳥達に飛び掛る。
 鳥達は陣を崩すように一斉に飛び去って行った。
「あれは、何だったのだ」
「彼女達の晴らせぬ想い」
「彼女達?」
「この邸の主によって多くの女が想いを果たせずにいる。それが形になったもの」
 男は信じられない思いで呪術師を見やった。
「まさか。ここだけの話だが、奴は常にいろいろな女に文を送るくせに色良い返事を貰うことが殆どないのだ」
「都の女達の想いを妨げているのは、邸の主が作り出したもの。それが想いを邪魔し、その妄念を誰かが形にした」
 男の顔色が変わった。
「では、何者かが呪いを掛けているのか。これは大事だぞ、帝にも一度話をしよう」
「必要ない」
「しかし」
「作り出したものを消し去ればよい。もし術者を相手にすると」
 呪術師は、真っ直ぐ男を見つめた。
「あなたかこの邸の主が術者に狙われるかもしれない。あなたは既に警告を受けた」
「む」
「敵を作りたい?」
「そんな必要はないということか」
「ない」
「…わかった。そういうことは俺には判らん。任せる」
「そう」
 闇夜の中、二人は車に乗りこんだ。

 
 

   <伍>

 

 翌日、件の邸である。場には邸の主である谷口、それに相対するようにきょんと呼ばれる男と呪術師が座っている。
 谷口は明らかに呪術師と目が合わないように努力していた。
「俺が、女達の恨みを買ったというのか」
「思い当たる節があるだろう」
「おいおい、お前だって知ってるだろう。俺は自分に届いた文を返事もしないで放り出すようなことはない。一体、誰だっていうんだ」
 呪術師が口を開いた。
「大勢を勝手に判じた。それを女達が知った」
「あ…いや、それは。あ、あれか」
 邸の主は青くなってきょんと呼ばれる男ににじり寄った。
「あれのことか。ああ、話す。なあ、だから今から言う事はここだけの話にしてくれ」
「わかったから早く言えよ、谷口」
「う、うむ」
 谷口は汗を額に浮かべた。
「実は、な。都の女達の格付け表を作ったのだ」
「なに?」
「評判を聞き込んで、文の才、楽の才、そんな辺りを使ってな。宿直の折りに皆に見せたら重宝がらて、それで…」
 きょんと呼ばれる男は思わず天井を見上げた。
「で、今はどこにあるんだ」
「あ、ああ。それは…」
 話を聞き終わると、呪術師は立ち上がって家人の案内も待たずに歩き出した。
「な、なあ。おい」
 谷口がきょんと呼ばれる男の袖を引っ張った。
「わかってる。帝には黙っておいてやる」
「そうじゃなくてさ。あの呪術師、まるで女みたいに綺麗な顔立ちじゃねえか。なあ、年頃の妹とかいねえのか」
 きょんと呼ばれる男は相手の肩を両手で叩いた。
「お前、呪術師の兄がいる邸に通う自信あるのか」
 絶句する邸の主をそこに残し、男は呪術師の後を追った。
「これで、その格付け表を取り上げれば良いのだな」
「変わった男」
 きょんとよばれる男は頭を下げた。
「すまん。あれでも心根は悪人ではないのだ」
 短髪の少女はしばらく男を見つめていたが、やがて口を開いた。
「いい」
 車は呪術師の邸の前に、二人を運んだ。
「では、俺は格付け表を取り上げてくる」
 少女は微かに頷いた。
 男は暫し黙って呪術師を見つめた後、言葉を紡いだ。
「そうしたら、また来る」
「…そう」
 呪術師が邸に中へと消えるのを、男はずっと見送った。
 その日、内裏ではまたも帝の大声が響いた。
「もっと分かりやすく言いなさいよ」
 きょんと呼ばれる男は眉を顰めた。
「妖異の事など、俺にはさっぱりだ。俺に分かるのは、もう大丈夫だってことだけだ」
「何よ。それじゃ全然つまんないわよ」
 目を見開く帝は男に指を突きつけた。
「罰としてあんたと谷口は今夜宿直。あんたは古泉君の下で内裏の警護。あたし直々に仕込んであげるから」
「おい、待てよ、はるひ。俺は検非違使の連中みたいな弓の腕なんてないぞ」
「いいからやんなさい!」
 ようやく開放されて内裏を退出する男に擦り寄る影があった。
「何だ。顔が近いぞ」
「鮮やかな解決でした」
「ありがとよ」
「これで彼も本当の懲罰なしで復帰。この件は誰も文句が言えません」
「俺はたっぷり言いたいがな」
 検非違使の長は含みのある笑みを浮かべてきょんと呼ばれる男を見送った。

 
 

   <六>

 

 都の北東にある邸である。良くある貴族の邸に比べると小さい。その門前に、一人の男が立った。狩衣を少々だらしなく着ている。
 随身の者らしき姿は周りに見えない。男は一人、邸の門を潜る。
「お待ちしていました」
 そこには、初めてここを訪れた時に男を案内した女が立っていた。
「来るのが分かっていたんですか」
 女は応える代わりに笑顔を向けてから歩き出した。
 男はそれ以上は喋らず、女に着いて、邸に沿って左へと歩く。
 縁側に、呪術師が足を綺麗に揃えて座していた。相変わらず白い水干を着て、手には湯呑を持っている。
「助かったよ。お陰で穏便に事が片付いた」
「そう」
 少女の目は、男に座れと催促しているようだった。
 一瞬迷う風をみせたが、男は黙って呪術師の隣に腰を下ろす。
 間をおかずに、先程の女が湯呑を男の横に置く。
 春風が庭の草を揺らし、少女の短く色の薄い髪を揺らした。透き通る白皙の顔が揺れる髪の間から覗く。
 風は男の元に花の香りとも髪の香りともわからぬ芳香を運び、男をくすぐった。
「春だな」
 薄い髪が揺れた。
 男は視線を庭に向けたまま、更に口を開いた。
「ここは、良い邸だ」
 少女が真っ直ぐ自分を見つめるのが、男には感じられた。
「なぜ?」
「この庭。まるで手入れがされていないようでいて、実は整って見える。まるでお前の…いや、とにかくこの邸全てが一つであるかのようだ」
「そう」
 男は手を狩衣に擦り付けた。
「ところで」
「……」
「俺はお前を何と呼べばいい?」
「なぜ?」
「宮中ではお前は稀代の呪術師とか、単に呪術師としか呼ばれない。でもな、それじゃ本当にお前を呼んでいることにならない」
 男は隣の少女を見つめた。黒檀の瞳に、引き込まれるような気がする。
「……」
 やがて、透き通るような肌の少女はゆっくりと口を開いた。
「長門」
「長門、か」
「今は、そう呼んで欲しい」
「わかった」
 風が草木を揺らし、木々の枝の若葉を揺らし、音ともつかぬ音を奏でた。
「あなたは」
「ああ、何だ」
「用心した方が良い」
「まだ、狙われているのか」
「わからない」
「むむ」
「でも」
「うむ」
「私がさせない」
 男は手を差し出しかけ、慌てたようにそれを止めた。
「なあ、長門」
「なに」
「また、ここに寄っても構わないか」
「構わない」
「その、なんだ。こうしてこの景色を見ていると、何故か心が落ち着くのだ」
 男は更に言葉を続けようとして、やがて目の前の黒く輝く瞳から逃れるように庭に目を転じた。
「ところで、今日俺がここに来るのが分かってたのか」
「知られたくないなら往来で独り言を言わぬべき」
「往来って、一体どうやって…」
 男は言葉を止め、もう一度庭に目をやった。
 全てが一体であるここでは、そんなことはどうでもいいことだった。

 
 

   <七>

 

「ふーん。で、どうしてそんなことが政と関係あるの?」
 長髪の少女は不思議そうに凛々しい眉を顰めた。
「外から見るほど宮中は一つにまとまっていない。常に誰かが自分達の勢力を大きくしようとしている。自分の仲間が一人でも多く宮中にいることが、奴らの生甲斐なのだ」
「つまらない理ね」
「ああ、全くだ」
 ふいに男は頬をくすぐる感覚を覚え、僅かに顔を動かした。
 目の前に、少女の顔が迫っていた。
「で、どうしてその話が彼女に秘密なの?」
 男は顔を朱に染めて庭に目を転じた。
「それは…あの時、庭が好きだからここにまた来たいのだとあいつに言ったのだ」
「で?」
「だから、だな。ええい、そういうことだ」
「覚えておくわ、秘密ね。でも」
 長い黒髪を揺すって、少女は口を手で押さえながら笑った。
「そんなこと、彼女が気が付いてなかったと思う?」
 男の顔が更に紅くなり、少女の笑い声が高くなった。
「それより約束だ。お前も早く話せ」
「そうだったわね。でも、どうかな」
「おい、勿体ぶるな」
「残念。またね」
 長髪の少女が顔を向けた先に、白い水干を着た色の薄い髪の少女が立っていた。その黒く透き通った瞳は、何かを尋ねるように男を見つめている。そして、その少し後ろでは異国風の装束を纏った、緑色の髪をした女が訳知り顔で微笑んでいた。
 縁側に四つ並んだ影が、暫くして二つとなった。二つとなった影は、そのままずっと陽が沈むまで寄り添うように動かなかった。

 

   終

 


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Last-modified: 2012-06-17 (日) 03:02:52 (3093d)