作品

概要

作者江戸小僧
作品名無時代伝奇劇 空より降りしもの
カテゴリー長門SS(一般)
保管日2006-11-04 (土) 12:52:06

登場キャラ

キョン登場
キョンの妹不登場
ハルヒ登場
みくる登場
古泉一樹登場
鶴屋さん不登場
朝倉涼子登場
喜緑江美里登場
周防九曜不登場
思念体不登場
天蓋領域不登場
阪中不登場
谷口不登場
ミヨキチ不登場
佐々木不登場
橘京子不登場

SS

 

  <<空より降りしもの>>

 

 何時とも知れないが、闇が都をも跋扈していた時代の話である。

 
 

   <壱>

 

 狩衣を着た男が、その邸の門をくぐった。
 稀代の呪術師の邸として知られ、その前を通ることさえ憚る者が多い邸だが、男は躊躇う様子もなく入り込む。
 そのまま足を横に向け、庭へと出た。
 男は縁側に目を遣る。いつも、小柄な呪術師が足を揃えて座る、その場所に。
「長門……」
 男は小さく呟いた。都の貴族の間ではきょんと呼ばれるこの男は、何かを待つように、その場に佇んだ。
 冷たい風が、男の狩衣の裾をはためかせる。
「きょん君、でしたよね」
 目を上げた男は、いつの間に現れたのか、十二単を着た女を見た。栗色の髪をしたその女は、良く見ればこれまで何度も見てきた、長門が紙より作り出す式神の顔をしていた。
「待ってくださいね。今、お茶を淹れますから」
 縁側に腰を下ろした男の元に、やがて湯呑を載せた盆を持って式神が戻ってきた。
「どうぞ」
 その笑顔につられるように、男も笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます」
 湯呑を口につける。
 冬の風が、女の髪を持ち上げた。
「ところで」
「はい?」
「長門はどうしたんですか」
 女は顔を下向けた。
「あの……ここにはいません」
「どこに行ったんですか」
「すみません。それは言えません」
「いつ帰ってくるんですか」
「それも言えません」
 男は式神の顔を見つめる。
「北に向かったのですか? あの二人と一緒に」
「……」
 男は湯呑を置いた。手が、拳を作っている。
「俺に何も言わずに……行ってしまったのか?」
「言えません……でも」
 女は何故か泣きそうな顔になって男を上目遣いに見つめた。
「言伝を預かっています」
「言伝?」
「はい。あなたは都より北に向かってはいけない、と」
「なぜ?」
「言えません」
 男は腰を上げた。
「あの、きょん君」
「お茶、ごちそうさまでした」
 立ち上がった男の目は、固い色に染まっていた。
 陽が天空高くある筈の刻だが、厚い雲の覆われて、薄暗い日であった。
 次に男が向かったのは、帝が住まう宮である。
 内裏を警護をする幾人かと言葉を交わし、きょんと呼ばれる男はさしたる苦労もなく宮中奥深くへと足を進めた。
 やがて。
 宮中の奥に、帝の声が大きく響いた。
「駄目よ」
「なあ、はるひ。この世は都だけでできている訳ではないし、この国だけで全てが成り立つ訳でもない。皆、繋がっているのだ」
「だから?」
「俺達の食べているものは誰が作ってる? 毎日土と交わっている領民だ。珍味を味わえるのは何故だ? 余所の国から持ってくるからだ」
「わかってるわよ、そんなこと」
 時の帝、はるひはきょんと呼ばれる男に顔を近付けた。
「でもね。都に鬼を呼び寄せる事はできないわ。都の者を差し向ければ、それは鬼を呼び込む事になるかもしれない。これは皆も同じ考えよ」
「都の外が本当にあるかどうか見たこともない連中が、な」
「ちょっと、きょん」
「ああ、すまない。だが、俺は放ってはおけないのだ」
「妖の事は呪術師達に任せなさい」
「これは人の世の問題でもある。俺達の、な」
「鬼を相手に人が何をできるってのよ」
「はるひ、これまで何人の勇敢な武士が鬼を退治してきたと思ってるんだ」
「そんなの……あんたは弓でも太刀でも、都一の強者ではないでしょ」
「だが、俺でも太刀を振るうことはできる」
 はるひは男に指を突きつけた。
「ちょっと! 勝手な事は許さないわよ」
「俺はいつもの通りだ。できることをするまでさ」
「あんたね……」
 はるひは右手を上に上げると、指で何かを形作った。
 周りの壁から、蔀戸の陰から、人の気配が消える。
「これで本当に、私達だけ」
「はるひ……」
「全く。自分の身の事も考えなさいよ」
「考えてるさ」
「嘘よ!」
「はるひ……」
「私は、帝になりたくなんてなかった。でもね」
 はるひは男の目を覗くように顔を近づけ、真っ直ぐに睨んだ。
「生きるためには帝にならなきゃならなかった。そして、私がこんな風に振舞ってなければ……さっさと跡継ぎなんて産んでいたら、あんたは邪魔な継承者候補として−−」
「わかってるさ」
「わかってない! 私達が……あんたが……」
「すまない。だが、これが俺の答だ」
 男はゆっくりと立ち上がった。
「どうして?」
 屈託のない笑顔を、男は帝に向けた。
「俺は、単純な男だ。目の前で困っている奴がいたら、何とか助けたい。それが誰のためになるかなんて事は、俺には難し過ぎる」
「きょん……」
「混被の民の騒ぎが終わっても俺が邸に戻らなかった時は……どうか、これまで俺の邸に勤めてくれた奴らの世話を頼む。こんな俺に仕える事に我慢できたんだ。きっと、どこでも務まる奴らさ」
 きょんと呼ばれる男は帝に一礼して立ち上がった。そのまま、後を振り返らずに部屋を出る。
 部屋の外では、検非違使の長が待っていた。
「行くんですか」
「そう言われると、決心が鈍るな」
 古泉の目が暗くなった。
「僕も、残念には思います。しかし、この国を守ることが僕達のやるべきことです」
「わかってるさ」
「何故です? 失礼ながら、あなた一人が向かっても意味はないかと思います」
「そうだな」
 男は古泉に目を向けた。
「しかし、混被の民も、長門達もいる。俺一人で立ち向かおうって訳じゃない」
「そうですか。あなたらしいお答えですね」
 検非違使の長は、いつものような微笑を口元に浮かべた。
「でも、その時は声を掛けてください。必ず」

 
 

   <弐>

 

 きょんと呼ばれる男は、栗毛の若駒に乗って己の邸を出た。鎧を纏い、弓を背負っている。尋常な外見ではない。偶々この姿をみた人々が、何が起こったのかわからず顔を引きつらせている。
 男はそれらに構わず、馬を西に向かわせる。その顔に、迷いはない。
「お待ちしてました、きょん君」
 都の西にある門の前に、白皙の呪術師の邸にいた式神の女が立っていた。
「なぜ、ここにいるんですか」
「恐らくこうなると、言われてました。あなたは来てしまうだろうって」
「やれやれ。信用されてないな」
 女は小さく笑った。
「あなたは良い漢だからそうするだろう、と言っていました」
「で?」
 女は屈託のない顔を向けた。
「ご案内します。一人では危険ですから」
 男は式神を自分の前に引き上げた。そもそも輿を使わずに獣に乗るなど帝に拝謁する身分の貴族がすべきことではなく、一頭の馬に二人で乗るなど、およそ雅な都人のすることではない。しかし、男はそれを気にする風もなかった。
 馬は、男の指示の通りに都を出て川に沿って北へと向かう。
 やがて、彼らは都の北、山の麓にまで至った。
「彼らはきっとあの峰の向こうです」
「ここからでは越えるのは無理ですね」
「都の馬ではこの先はとても進めません。この先を登るには杣道しかないんです」
 陽はまだ天にある頃だが、厚い雲に覆われた空の下、既に目の前の道は薄暗くなっている。
 男は眉を顰めて山の中に入る杣道を見ていたが、やがて鎧を脱ぎ、鞍に括りつけた。代わりに大きな袋を背負う。
「それ、何ですか?」
「松明が入ってるんです」
「では、行きましょう」
 二人は暗闇の中に、歩を進めた。
 落葉に覆われた杣道を、黙って歩く。松明の明かりでも男には十分ではなく、時々上半身が揺らぐ。女は明かりがないことを苦にも思っていないようだが、十二単のせいか、それともこれが女の癖なのか、風に巻かれるように不安定な歩き方だ。
「混被の民は、どの辺りにいるんですか」
「ふぇ、私にはわかりません」
 男は松明を持つ手を左から右へと代えた。
「では、どこに案内してくれてるんですか」
「長門さんのところです」
「あなたには長門の居場所がわかるんですか」
 女は振り返って笑顔を向けた。
「お任せください」
 月の大きな夜の筈だが、月も星も見えない。ただ、冷たい風が二人を翻弄するように杣道の上から強く吹きつけた。
「これは、雪になるかな」
「寒いですか?」
「俺は大丈夫。むしろ汗ばむ位ですよ」
 実際、男は額に汗を滲ませていた。太刀を腰に挟み、弓を背負い、松明を持って細い杣道を登っているのだ。普段から徒歩で歩き回るこの男にとっても苦労の多い道行きであった。
 どれほど歩いただろうか。厚い雲のせいで、男は今の刻を推し量ることが全くできなかった。
 今にも躓いて倒れそうな歩き方の癖にいっかな倒れずに前を行く女が、その歩みを止めた。
「どうしたんです」
 栗色の髪の女は真剣な顔を男に向けた。
「鬼が向こうの谷にいます」
「なんだって?」
 女の視線を追って、闇を透かし見る。
 男の目には何も見えないが、しかし、遠くに大きなものが蠢く気配は伝わってきた。
「まだ遠そうだな」
「はい。でも、動き続けています」」
「急ぎましょう」
 その時。
 大きなものがいる気配のする方から、風に乗るようにして人々の声が聞こえた。
「あれは」
「混被の民。鬼に追われている」
「な、」
 男は声の主を求めて振り返る。
「長門!」
 白皙の呪術師が、風に舞って降りきたように静かに二人の背後に立っていた。

 
 

   <参>

 

「あの鬼は、民の長だった男が変化したもの」
「なんだって」
「今年、北の地は不作だった。民を救うことに悩み、己の行く道を失い、ついに鬼と化してしまった」
「そんな……」
 色の薄い髪を冷たい風になびかせ、長門は目を男に向けた。
「誰のせいでもない。人は、思いつめる余り、時に己の心に囚われ、鬼となる」
「それで、己が守る筈の民を襲うのか」
「人は心に暗闇を持つ。守るべき民は生甲斐にもなるが、同じだけの重荷にもなる」
 男は思わず座り込んだ。
「なんてことだ」
「民はただ逃げている。このままなら、都に至る」
「どうすればいい」
「混被の民は、長であった鬼に手を下す事を拒んでいる」
「お前達は、ここで何をしてるんだ」
「私達は自ら人に関わりを持たない。人が縁を結んでこそ、手を貸すことができる」
 小柄な呪術師は、男に手を差し出した。
「目を閉じて」
「う、うむ」
 男は目を瞑り、松明を持たぬほうの手を前に出した。
 その手を、小さな手が包む。
 そのまま、前に引かれた。 一歩、二歩と足を進める。
 今度は右に引かれる。杣道はなかったと思いながら、男は自分を導く手に従う。
 やがて、風の向きが変わるのを肌に感じた。
「なるほど。長門さんの言う通りですね」
「全く。一人で来ちゃって」
 目を開けた男の前には、呪術師の二人が立っていた。
 先程までいた杣道がどこなのか、わからない。闇に辛うじて慣れた目は、そこが開けた場であることをどうにか見てとることができた。
「あなた方はここで何をしてるんです」
 緑の行者が薄く笑った。
「事を見据えていました。人の世の内で収まることであれば、私達がすることはありません」
 雲が薄くなったのか、山が灰色に薄く照らされた。
 男は、見た。
 それは、都の邸程もあるように見えた。あるいはもっと小さいかも知れないが、影でしか見えないそれは、男にはとても大きなものに感じた。
 人の形ではない。むしろ、地を這う虫に似ているだろうか。足か手と思しきものが、何本も巨きな影から細く伸びている。まるで蜘蛛のようである。影の一方から、竹のようにしなる二本の影が揺れていた。それが、枯れ谷に蠢いている。
 そして、その影に追われて動き回る無数の影。
「俺が、刃を向ければ手を貸してくれるんですか」
 長髪の呪術師が、両手を顔の前に組んだ。
「何でもいいからやってみた方が良いんじゃないの」
「そうかもな」
 男はそう言うと、巨きな影までの遠さを推し量った。
 ずっと背負っていた弓を下ろし、矢を手にする。
「間違って民に当てない自信がおありですか」
「いや。だが、その責は俺が負う」
 男は弓を絞った。矢を、上に向ける。
「待って」
 きょんと呼ばれる男は、矢を下ろした。
「どうしたんだ、長門」
「あれ」
 白皙の呪術師の右手が指す方、男達のいる開けた場から見下ろせる木々の闇の中、赤い光がちらついている。
 赤い光は、突然闇夜を鋭く切り裂いた。
 それは弧を描いて巨きな影に吸い込まれる。
 巨きな鬼の頭らしき辺りに、炎を映す硬質な目のようなものが見てとれた。
 鬼が体の向きを変える。光が飛んできた方に。
 闇の中、ひときわ暗い影が宙を覆った。
「跳ぶのか、奴は!」
「器用に自分の民を跳び越えたみたいね。あの彼、大丈夫かしら」
 男は慌てて弓を構え直す。
「当たるの? あなたの腕で」
 男は長髪の呪術師を睨んだ。
「こういうのは、気合だ」
 引き絞った弓を上向け、右手の矢を放つ。矢は暗闇へと消えた。
「あなたの腕で当てるとは。人の思いというのは侮れませんね」
 波打つ髪の呪術師が言うのと、巨きな影が再び躍り上がるのと、殆ど同時であった。
「来るぞ」
 きょんと呼ばれる男の横についた長門が、右手を掲げる。
 男達の前へと空から降ってきたきた巨きな影が、空中で止まった。
 影は、何かに叩かれたように力なく地へと落ちる。
「これは?」
「早く」
 長門に手を引かれ、影から離れる。
 先程よりも近くから、またも赤い光が弧を描いて迫る。光は影に当たり、そのまま突き刺さった。
巨きな影が仰け反って細長い脚を振るわせる。それは、断末魔の叫びの代わりのように見えた。
「やったのか?」
「いいえ。でも、暫くは動けないでしょう」
 男は傍らの呪術師達を見た。
「彼は、救えないのか?」
「何言ってるの、救うなんて」
「人だったのだろう。お前がいたずらをした鶴屋の女房は長門が救ってくれた」
 小柄な呪術師は、男に顔を向けて僅かに首を振った。
「彼は、人には戻れない」
「なぜなんだ」
「彼がああなったのは民を慮って、ただ、それが行過ぎたからです。しかし、ここにいる限り彼が再び安心することはありません」
「あなたは、私達に彼らを都に受け入れろ、と?」
「早かったな、古泉」
「あなたの馬が鎧なんて担いで都の門に現れたんです。あなたが何をしているのか、すぐわかりました。今頃、内裏は大騒ぎですよ」
 闇夜の中をずっと走ってきたのか、この男らしくなく額に汗を滲ませた検非違使の長は続けた。
「都は彼らと話すことすらしません。鬼が率いる民が相手では」
「おい、古泉!」
 検非違使の長はきょんと呼ばれる男を真っ直ぐ見つめた。
「あなたもわかっているでしょう。帝はともかく、都の大臣連中は余所者の話には決して耳を貸しません」
「むう」
「それより、あなたです。一人だけで鬼退治に行くなんて」
 男は、目の前の男を真似するように口元に笑みを浮かべた。
「俺は己の信じる事をするまでだ。せめて、俺だけは俺を信じてやらないとな」
 朝倉が横目で男を見つめた。
「なるほど。長門さんがあなたを良い漢って言う訳がわかるわ。何で都なんかに留まってるの」
 緑の髪の呪術師も笑みを向けた。
「不思議なものですね。いつでもあなたのような人が因果を紡ぐ。人の世を真に継ぐ者はあなた達が決めるのではない。因果に呑まれることなく因果を紡ぐ、名もなき者が常にこれを継いできた」

 
 

   <四>

 

 皆から離れて、緑の行者ときょんと呼ばれる男はお互いを見つめ合った。
「私達は観る者。人の世に、人と同じように関わることはありません」
「しかし、これまでも様々なことをしてきたじゃないですか」
「天地の理に応じただけです。私達は大極を尊び、従う。人の世の縁を紡ぐのは私達の役割ではありません」
「そんな……」
「尤も、人に己の名を明かせば別ですが。その時は私達も人に関わることが適います」
「名?」
「あなたも、本当の名があるのに誰にもそれを呼ばせない。それは、そもそもは故あることなのです」
「……」
「私達にとって、名を明かすことは人に己を捧げることに等しい。しかし、人は移ろい易く、己の全てを預けるには余りに思慮が足りません」
「では、あなたは往くのですね」
「そうです。また都の様子を見に寄るかも知れませんが、それは、わかりません」
「寂しくなりますね。きっと、長門にとっても」
 緑の行者は男の目を覗き込んだ。
「あなたがこちら側に来ませんか。あなたは自分で気が付いていないかもしれないけれど、素晴らしい才を持っていますよ」
「俺に才があるとしたら、それは己を信じてやること位です」
「それですよ」
 行者は髪を揺らして、笑みを深くした。
「それは、天地の理を見るために最も大切なことです」
「しかし、俺は鍵なんでしょう。人の世のための」
「そうですね」
 行者は深く息を吐いた。
「あなたの行いに、全てが掛かっているかも知れません。でも−−」
 波打つ髪の下から、やはり緑がかった瞳が男を貫いた。
「あなたは行く末を意識せずに自らの思いでその行いを決める。それで良いのです。さればこそ、あなたの声がいずこへでも届く」
 二人が戻ると、巨きな影の傍に人々の影が集っていた。
「あくまでも長を慕い続ける。立派なことですね」
「そうだな」
「どうしました?」
 男は口篭り、そして、言った。
「俺達は何に仕えているのだろうな」
「帝、でしょう」
「国ではなく、か」
「その国を統べるのが、我らが帝です。違いますか?」
「そうか」
 二人の男は、異形の影を遠まきにする人々の影を見つめ続けた。
 と、男の肩に手が載せられる。甘い匂いが男の鼻をくすぐった。
「お別れね」
「なに?」
「私達は行かなくちゃ」
「お前も、か」
「あれよ」
 朝倉は巨きな鬼と、それを遠巻きにする人々を指した。
「ここは彼らが暮らすには狭すぎるわ。私達が連れてゆく」
「終われば、又戻ってくるんだろ」
 朝倉は、眉を顰めた。
「緑の−−行者が当分離してくれないわ。まだ修行が足りないって思ってるみたい」
 そう言うと、わざとらしく着物の裾を摘んだ。
「今のうちに見納めしておきなさい。もう、こんな脚見れないわよ」
「何言ってる。お前はどこにでも現れる、自由な呪術師だろう」
 男の言葉を、女は遮った。
「言いたいことがあるなら今のうちにちゃんと言っておきなさい。ほら」
 長髪の呪術師は、影となって闇に消えた。
 男は慌てて振り返った。
 白皙の呪術師が、男の前に立っていた。
 その姿は、男が知る今までのどれよりも小さく見える。
「あなたが名を呼んでくれれば、応えられる。いつでも、どこにいても」
「なんだ、それ……」
 黒檀の瞳が、言葉よりも深く輝いていた。
「待ってくれ、長門」
 小柄な白皙の呪術師は、ごく微かに首を振った。髪が揺れ、その香りが男の鼻腔をくすぐる。いつものように。
「聞いて」
「長門」
「私の名は……」
 血の様に赤い小さな唇が、躊躇うように開き、また、閉じた。
 突然、まるで何本もの雷が地に落ちたかのような光と轟きとが辺りを支配した。
 それは山を揺るがせ、男達をなぎ倒し、空の雲を照らした。
 世の終わりかとも思われる冷たい光と、轟きであった。
 男は揺れる大地に這うようにしながら、必死で周りを見回して探す。
 良く知る少女の姿を。
 白皙の顔、短く色の薄い髪、輝くような紅唇、そして、闇よりも深く、陽の光より輝く、黒檀の瞳。
 しかし、光と音が荒れ狂う中、男が小柄な呪術師の姿を見つけることは叶わなかった。
 やがて、静寂の中、長かった夜が明けた。
 厚い雲の下、陽の光が届かない世界を、白く軽やかに舞い落ちるものが満たし始めた。 それは葉の枯れた木の枝を飾り、地を埋め、二人の男を包んだ。
「終わりましたね。残ったのは僕達だけ……」
 検非違使の長は傍らで蹲ったままの男に顔を向けたが、その顔から雫が落ち続けているのを見ると、黙って目を逸らした。
 せめて、男が今暫くは思うまま振舞えるように。

 
 

   <伍>

 

 きょんと呼ばれる男はいつものように二人きりで帝と相対したが、時の帝の表情は嵐の海のように険しかった。
「で? 何か言いたいことはある?」
「感謝してるぞ、はるひ」
 帝は一瞬口を開けて目を見開いたが、すぐに目を細めた。
「いいわよ、古泉君が勝手にやったことだし。あいつ、都大路十往復の刑だわ」
「あいつが勝手に、ね。とにかく、ありがとよ。俺が今も生きてるのはお前とあいつのお陰だ」
 帝はまだ不機嫌そうに口を窄めて男を睨みつける。
「ふん、わかってるじゃない」
 きょんと呼ばれる男は帝を真っ直ぐ見つめた。
「俺は人の世が好きだ。その事に、改めて気が付いた。帝のお前がいて、そして精一杯生きている皆がいるこの世が、な」
 はるひの口が徐々に大きく開き、そこに輝くような笑顔が現れた。
「きょん! 今度勝手にどっか行ったらこの場に磔だから」
 男が内裏を退出する時、その顔はいつになく暖かかった。
「お口添え、感謝します」
 男は声の主を横目で睨んだ。
「見え透いた事を言うな。あいつはあれで俺を騙したつもりなのか」
 検非違使の長は、いつもの微笑を口元に湛えた。
「いいじゃないですか。あの方が喜ぶなら」
「相変わらず、お前らしいな」
「仕方ありません。これが僕らの役割ですから」
「全く。誰か交代してくれないかな」
 二人の男が交わす視線は、言葉とは裏腹な感情を滲ませていた。
 この日も、空は灰色に覆われている。
 男は都の北東にある、今は主のない邸を訪れた。
 暗い空が無数の冷たいものを地へと降らせる中、一人の供も連れず、徒歩でひたすらに歩いてきたのだ。
 こうすることが当たり前になってどれほどになるか。既に男にもわからない。ひどく昔からこうであったような気もするし、つい先頃からであったような気もする。それでも、たとえ目を瞑っていても己の邸からここまでは足が向くままに来ることができる、そんな気がする。
 門をくぐるとすぐに足を横に向けて、白く化粧された庭へと向かう。
 男が歩くにつれ、色のない庭に黒い斑点が浮かぶ。
 男はゆっくりと、縁側に腰掛けた。いつもの位置。すぐ隣に、常に小柄な呪術師の姿があった、その場所。
 男の右手が、簀をゆっくりと撫でていた。冷えた感触が掌に伝わる。
 音のない世界に舞い降りる白いものが冷たく、しかし穏やかに男の頬を撫でた。
 と、男が顔を上げる。
「長門」
 立ち上がり、庭を見回した。次に振り返り、中を覗くようにして目を眇める。
「いるんだろう。これ以上からかうな。隠れてもわかってるんだぞ、長門……」
 再び、撫でるように男の頬をかすめるものがあった。その感触は、男に白い小さな手を思い出させた。
 男は躊躇うように頬を己の手で撫で、そっと、呟いた。あの夜、紅玉のような唇が形作った、その名を。
 男の顔に、柔らかに風が当たった。それは、部屋の奥から吹いてきたように思えた。
 男は、ゆっくりと笑顔になった。今も奥の方には何も見えない。しかし、男はこの邸の奥に、確かに自分の知る透き通るような白皙の肌と薄い色の髪、冷たくも暖かくも感じる黒檀の引き込まれるような瞳を持つ呪術師を感じた。
 それは、きょんと呼ばれる男には間違えようのないものだった。

 
 
 
 
 
 

 俺はゆっくりと原稿をコタツの上に置いた。
 高級なマンションの、家具が殆どない708号室。早春の陽が、カーテンを開け放した窓越しに暖かい。
 何故ここにいるのかって? 朝、妹が某蛇男の如く俺の居城に潜入してミッションを完了するより早く、俺の携帯が俺を唯一の安息の地である夢の世界から、鰹の一本釣りの如く豪快に一気に現実へと引きずりだしたのだ。
「来て」
 理由を聞くことなど、思いつきもしなかった。ついでに、朝飯も食い忘れた。別に、朝から大盛カレーとキャベツを食いたかった訳じゃないぞ。
 そんな訳で、こうして今、1人で長門先生の原稿を拝見する栄光に浴している訳だ。
 先生、眼鏡に光があたって、すごく知的でカッコ良いです。どうせならタイトな感じの純白のスーツなどもお召しに−−
「あなたの原稿」
 これ、俺が書いたことにしろってのか?
「そう」
 長門。これは、お前の心がこもった作品だ。だから、これを俺の作品ってことにはできない。お前が書いたって言って、堂々と皆の前に出してくれ。
「必要ない」
 おいおい、せっかく書いたんじゃないか。
「あなたが不要なら、私も不要」
 お前が頑張って一晩で書いたんだろ。皆に見せたくないのか?
「虚構の世界に私の望みはない」
 ん? お前の望みって何だ? できることなら何でも協力するぞ。
「では、頼みがある」
 はい、何でしょう、先生。さすがにここの廊下に立たされるのはちょっとイヤだが、俺も男だ、二言はない。何でも言ってくれ。
 長門は小さな両手でゆっくりと眼鏡を外した。小さな爪の桜色が、夏に妹が海で拾ってきた貝を思い出させる。
 そして、真っ直ぐに俺を見つめる。
 俺を見つめるその瞳は、小春日和の陽だまりのような暖かさを湛えていた。
 白く透き通った顔を彩る紅唇が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
 え? あの……それは。
「いや?」
 頼む。そんな真摯な瞳に輝くような意思を込めて下から見つめないでくれ。そういうのを有機生命体の世界では反則というんだぞ。どこでそんな技を……
「反則でもいい」
 ……よし、わかった。お前からの頼みごとなんて、この先あるかどうかもわからないんだ。そんなお前からの、たった1つの頼み、断るものか!
 その後の、春の日差しに包まれた708号室での事は、別にわざわざ言う必要もないだろう。
 駄目だ。絶対に言わないぞ。たとえ1年間毎日死刑だと言われようと、メタルスーツを着たお巡りさんみたいに閉鎖空間に引き摺り込まれようと、駄目だ。これは俺達2人だけのものだ。
 シナリオ? ああ。出したさ。嘘なしで、な。団長様は何を考えてるのか想像したくない、梅干とレモンを同時に口に入れたような顔で頷き、生徒会役員様もかろうじて首を縦に振り−−なんで、頷く前に俺を見て口元だけで笑うんだ?−−事なきを得た。ま、何も書いてこなかった俺は例によって罰金を言い渡されたがな。それより、明日からこれをどうやって実演可能な枠に収めるかを考えなきゃいけない。おまけに監督と脚本家の間でかなりの意見の相違もありそうだし、当分は気が抜けそうにない。
 ま、その程度の騒ぎなんて、別に構わないね。人は、何かを得るためには何かを失うことになるのさ。俺はもっと大事なものを手に入れたんだ。
 そうだろう?
「……約束」
 ああ、そうだな。すまん、俺達だけの秘密だ。これからもずっと。

 

   終

 


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Last-modified: 2012-06-17 (日) 03:02:39 (3094d)