作品

概要

作者ながといっく
作品名長門さんと混浴
カテゴリー長門SS(一般)
保管日2013-07-10 (水) 22:06:53

登場キャラ

キョン登場
キョンの妹不登場
ハルヒ登場
みくる登場
古泉一樹登場
鶴屋さん不登場
朝倉涼子不登場
喜緑江美里不登場
周防九曜不登場
思念体不登場
天蓋領域不登場
阪中不登場
谷口不登場
ミヨキチ不登場
佐々木不登場
橘京子不登場

SS

 

「……やれやれ」
 もはや俺の代名詞となったこの台詞から、このお話は始まる。
 幾度か封印を試みたこの台詞であるが、もはや知ったことではない。文句があるのなら、今、俺の目の前で繰り広げられている光景を見てから、再度申し上げて貰いたいものである。
 とある山奥の温泉旅館、その一室の長いテーブルの上には無数の空き瓶や空き缶が散乱し、畳や布団はこぼれた酒でびっしょりと濡れて異臭を放っている。
 部屋の隅でハムスターのように縮こまってくぅくぅと寝息を立てていらっしゃる朝比奈さんはまだ良い方で、古泉は普段の爽やかスマイルはどこへやら、「ヒャヒッ…ヒクッ」などと気持ち悪く笑いながら、今にも吐きそうな様子で机に突っ伏してしまっている。
 ハルヒに至っては、一升瓶を片手に握りしめたまま、よだれを垂らしてで大いびきをかいて眠りこけているという有様だ。着ている浴衣は滅茶苦茶に乱れている上に、何の遠慮もない大股開きで、さらには、酒でびしょ濡れになっているせいで浴衣がところどころ透けていて、非常に目のやり場に困る。千年の恋も覚めるとはこのことだろう。
 唯一、テーブルの端でモグモグと宴会料理の残飯処理にいそしむ長門だけが平常運転である。お前がいてくれて本当によかったよ。

 

 事の発端は、我がSOS団の特別顧問である鶴屋さんの一言だった。昨年と同様、図々しくも冬合宿の場所提供を要求したハルヒに対し、鶴屋さんは嫌な顔ひとつせず、
「ごっめんねー! 今年はおやっさんと一緒にオーストラリアの親戚のニューイヤーパーティに行かなきゃならなくてねっ、ハルにゃんたちと一緒には行けないんだ! その代わり、とびっきりの秘湯を用意しといたからっ!」
 と、去年の雪山の別荘にも劣らない、素晴らしい温泉旅館を手配してくださったのである。古泉曰く、この地域でも指折りの老舗旅館で、とても学生旅行で泊まれるような旅館ではないらしい。そんな高級旅館の宿泊費用まで肩代わりしてくださるというのだから、鶴屋さんにはもう頭が上がらない。
 とはいえ、当の本人が来ないのに大勢で旅行というのは流石に申し訳ないということで、今年は純粋にSOS団五人での旅行ということになった。部屋も大部屋が一部屋だけで、高校生男女が同じ部屋で寝るというのはどうかとは思うが、真ん中を襖で仕切ることができるのでギリギリセーフといったところだろう。
 なお、妹については一人増えた程度で大したことはないから、連れてくるかどうか大いに悩んだのだが、雪山と違って妹が遊べるような場所はなさそうだし、去年付きっきりで面倒を見てくれた鶴屋さんもいないので、今回は諦めてもらうことにした。もちろん、散々拗ねて泣いて暴れて、当日の朝には鞄に忍び込んでいるところを引きずり出したことは言うまでもない。もう小学校も高学年になるのだから、あまり兄を困らせないで欲しいものである。
 なにはともあれ、今年は途中で遭難したり、情報ナントカ体と隔絶された世界に閉じ込められたり、長門が倒れたりすることもなく、俺達は無事に温泉旅館に辿り着くことができた。
 実は、旅館側が未成年だということを知らないのか、それとも鶴屋さんのはからいなのか、昨日の大晦日の時点で部屋にはアルコールが用意されていたのだが、
「酔っ払って新年を迎えるなんて、新年に失礼よ!」
 などと珍しくまっとうなことをいうハルヒに従い、昨日は酒を一滴も飲まず、俺達は旅館のテーブルを囲んでキッチリと正座しながら新年を迎えた。そのまま旅館の近くの神社に初詣をしにいったり、初日の出を見に行ったりと、至って普通な年末年始を過ごしていたわけである。
 しかし、普通でないハルヒが、そんな普通な年末年始で満足するわけがない。
 その夜、ハルヒが高らかにこう宣言したことで、
「さあ! 新年を記念して大宴会と行くわよ! アルコールも解禁!」
 そして誰もそれを止めなかったせいで、冒頭の惨状に至るというわけである。

 

 いつぞやの孤島の時点でわかっていたことではあるが、どうもハルヒは酒癖がよろしくない。というより最悪の部類に入る。典型的な絡み酒で、とにかく他人に飲ませたがって潰したがるという、一番厄介な、できれば関わり合いになりたくないタイプだ。まったく、寝ても覚めても酔っても迷惑なやつである。
 そういえば、あのときも「アルコールは一生飲まない」だとか言っていた気がするが、果たしてあの誓いはどこへ行ったのだろうな。
 さて、そんなハルヒに真っ先に絡まれた朝比奈さんは「きゅぅ〜」などと可愛らしい悲鳴を上げてすぐに潰れてしまわれた。
 本来であれば、次にハルヒの毒牙にかかるのは間違いなく俺のはずだった。実際に、孤島の時はハルヒに対抗して飲み過ぎてしまい、古泉曰く「恥ずかしい醜態」を晒してしまったわけなのだが、ハルヒと違って俺は成長する生き物である。
 そう、約一年半の年月は、俺に「古泉を盾にする」という戦術を身につけさせてくれたのだ。元々がイエスマンでハルヒに逆らえない古泉である。勧められるがままに飲んでは飲んで、冒頭の泥酔状態に追い込まれてしまった。
 さて、唯一いつもと変わらぬ無表情を貫き通しているのが、SOS団最強のウワバミ宇宙人である長門有希である。ハルヒが朝比奈さんや古泉に絡んでいる間、俺とその大騒ぎを眺めながらちまちまと飲んでいた長門なのだが、相変わらず顔色一つ変わらない。二人を潰して意気揚々と飲み比べを挑んできたハルヒでさえ、見事に返り討ちにあってぶっ倒れてしまった。
 長門曰く、体内で解毒装置のようなものが働いているらしく、いくらアルコールを摂取しても酩酊状態になることはないのだそうだ(エチルアルコールやらアセドアルデヒドがどうとか言っていたが難しくてよくわからなかった)。それでも、酒の味自体は知覚することができるようで、その好みを聞いてみたところ、「結構好き」とのことだった。
 やはり俺も少し酔っていたのだろう。ふと、酔っ払った長門を見てみたくなり、「その解毒装置とやらを解除してみないか?」という言葉が口から出かかったが、流石にそれはやめておいた。
 この状況で長門まで潰れてしまってはもうお手上げだし、ひょっとしたらハルヒ以上の酒乱になるかもしれないしな。例えば、普段とは打って変わって感情を露わにしたり、唐突に服を脱いで妖艶に迫ってくるようになったり――いや、長門に限ってそんなことはないか。もっとも、もしも平行世界なんてものがあるとしたら、そんな長門も存在するような気もするが。

 

 さて、愚痴ってばかりいても仕方ない。
 潰れてしまった三人をいつまでも放置しているわけにもいかないだろうし、そろそろ後処理を始めなければなるまい。少しばかりふらふらする身体に気合を入れて、のそのそと立ち上がった俺は、ちょうど見下ろす形になった長門に声をかけた。
「長門」
 残飯処理の途中に済まないが、長門にも少し手伝ってもらうことにしよう。
「…………」
 長門はまるで未練を感じさせない顔つきでゆっくりと箸を机に置き、いつもと変わらぬ黒曜石のような双眼で俺を見上げた。まるで主人の指示を待つ忠犬のような様相である。同級生の女の子を相手にしてその例えはいかがなものかと思うが、それ以上にふさわしい例えがないのだから仕方がない。
「悪いが、朝比奈さんを布団に寝かせてやってくれないか」
 新年早々、風邪でもひかれたらたまらんからな。身体弱そうだし。
「了解した」
「ついでにハルヒのアホにも適当に布団でもかぶせてやってくれ。俺は古泉をトイレにでも運んでくる。ここで吐かれたらかなわんからな」
「了解した」
 抑揚のない声で、二度同じ台詞を吐く長門。あまりにも淡々としすぎているせいで、ちゃんと聞いているのか心配になるくらいである。もっとも、長門の場合は返事がなく無言でも信頼度90%以上、返事があればそれだけで信頼度120%なのだが。

 

 軽々と朝比奈さんを持ち上げ、いわゆるお姫様抱っこで布団へと運ぶ長門を横目に、俺は古泉の片肩を担いで、部屋の外にある共用トイレへと連れて行った。
 もちろん、部屋にも備え付けのトイレがあるのだが、ハルヒや朝比奈さんが起きて使う可能性もあるし、古泉だってこんな姿は見られたくないだろうしな。
「ふ、しゅいません……」
 運んでいる途中、古泉は何度も俺に謝ってきたが、喋る度に酒臭い息が顔に吹きかかり、正直言って鬱陶しいだけだった。もっとも、まだ謝っているだけマシなのかもしれない。これでハルヒみたいな絡み酒だったらたまったもんじゃないからな。
「わかったから喋るな。俺にゲロ吐いたらその場で捨ててくぞ」
「ふぁい……」
 まったく、文武両道眉目秀麗の古泉一樹様のこんな情けない姿を学校の奴らが見たらどう思うことだろう。
「すずみやさんは……」
「大股広げて豪快に寝てる。あれを見たらお前の恋も醒めるかもしれん」
「さめませんよー」
 意識朦朧なのをいいことにカマをかけてみた俺だったが、古泉はそんな企みに気づく素振りもなく、語尾を情けなく伸ばしてそう言い、気持ち悪く笑った。
 ……ああ、わかってるよ。
 あのくらいで醒めるようじゃ最初からハルヒなんて好きになるわけ無いからな。こんな状態で本音を聞き出して悪かったかもしれんが、こちとら既に"あっちの世界"のおまえから話は詳しく聞いてるんでな。
 細身とはいえ、俺よりも背が高いだけあってそれなりに重く、運ぶのは少しばかり骨が折れたが、部屋からトイレが近かったこともあってどうにか運び切ることができた。
「しばらく休んでろ。吐けるなら吐いちまったほうが楽だぞ?」
「ふぁい……ふいません……」
 一応タオルケットはかけたし、トイレの中も暖房は効いているようだから風邪をひくことはないだろう。しばらくして戻って来なかったら様子を見に来ることにしよう。

 

「しかし、どうしたもんかな……」
 とりあえず、人的な後処理は一段落したものの、物的な後処理、すなわちあの部屋の惨状は一体どうすればよいものだろうか。
 明日の朝になれば旅館の職員が清掃しにくるだろうし、この惨状を見られれば大目玉を食らうのは間違いない。最悪、そのまま警察を呼ばれて補導ということもありうる。
 仮に空き缶や空き瓶を全部片付けることができたとしても、畳やら布団にこぼれてしまったものは臭いが染み付いてもう誤魔化せまい。大体、ビールでびしょ濡れになった畳なんてもう使いものにならないだろうから、弁償ということになってもおかしくない。
 いずれにせよ、せっかくの鶴屋さんの好意を仇で返すような真似だけはしたくない。SOS団の良心を自称する俺としてはあまりインチキな手段を使いたくはないのだが、いざとなったら、古泉のコネなり長門の情報操作に頼るしかないかもしれない。
 などと、ほんの少し先の未来の心配事に頭を抱えて部屋へと歩を進めていた俺なのだが、結論から言えば、そんな心配は無用だった。
 俺が部屋に戻ると、まるで先程までの大宴会なんてなかったかのように、部屋は昨日、俺達がここにやって来たときの状態へと元通りになっていた。テーブルの上には食べ終わった料理の皿が整然と並べられ、酒がこぼれた畳や布団の染みや臭いも消え去っている。ついでに言えば、空き缶や空き瓶なども何処かへと消えてしまっていた。
 一体誰が……なんて考えるまでもないだろう。この場でまともな意識を保っている奴は俺を除けば一人しかいないし、そうでなくても、俺が席を外していたほんの十数分のうちにこんな芸当ができる奴なんて、俺の知る限りでは一人しかいない。机の横に敷かれた座布団にちょこんと座るそいつに、俺は労りの言葉をかける。
「……いつもいつもすまんな、長門」
 長門は顔だけをこちらに向け、まるで本当に何も大したことなどしていないかのような平静とした声で、
「構わない。大したことではない」
 そりゃあ、俺を守りながら同僚の宇宙人と戦ったり、話が通じるかもわからない敵の宇宙人と接触したりするよりかは大したことじゃないかもしれないが、これでも十二分に不可思議かつ非常識な現象であることに変わりはない。
「食べてる途中に悪かったな。食い足りなかったか?」
「そうかもしれない」
 もちろん冗談のつもりだったのだが、予想外に真面目に答えられてしまった。
 出会った頃の、外見も感情も無機質的だった長門であれば、この場面では「別に」なんて答えていたのだろうが(あるいは無視されていたかもしれない)、こいつもずいぶん俗っぽく、いや、人間らしくなったものだと改めて思う。
「そりゃ、すまなかった」
 そんな長門の変化に嬉しいような呆れたような笑みを浮かべながら、ふと時計を見ると、もうとっくに日付が変わってしまっていた。
 年明け直後から動きまわったうえに、夜はこの大宴会ということで、体中に疲労が溜まっている。そのうえ、夕食の時間からぶっ続けで飲んでいたものだから、まだ風呂に入っていない。少しばかり遅い時間ではあるが、風呂でゆっくりと疲れをとるのも良いだろう。
 問題は、入浴時間を過ぎていないかどうかだけだが、
「なあ、確かここの風呂ってまだ入れるっけ?」
「可能。二十四時間入浴可能とパンフレットに記載があった」
 その疑問はSOS団の万能コンシェルジュ長門さんがあっさりと解決してくださった。
 旅館のパンフレットなんてものを読んでいる長門を想像すると、なんだか再び笑いがこみ上げてきそうだったが、ここで笑うのもなんだか失礼な気がしたのでどうにか堪え、
「よし、じゃあ俺はひとっ風呂浴びてくるよ」
「そう」
 平常通りの、ややもすればあまり興味が無さそうにもみえる返答をした長門だったが、入浴がまだなのはこいつも同じである。それに、せっかく温泉旅館なんて場所に来たのだから、入れるときに入っておくべきである。
「長門もどうだ?」
 今なら女風呂もきっと貸切状態だろうから、ゆっくり入れると思うぞ。
「…………」
 反応、なし。というより、一時停止したかのように動きが止まったような感じ。
 宇宙人にとっての風呂の要否とその程度については、今ひとつ解明されていない部分ではあるが、少なくとも長門が風呂嫌いという情報は聞いたことがない。一応、女性が風呂に入れない理由がありうるというのは俺も知識としては知っているが、長門にそれが該当するとも思えない。いや、まだ来ていないとかそういう意味ではなくな。
 そのまま数秒ほど沈黙が流れ、何か話すべきかどうか逡巡していた俺だったが、
「……わかった。後でわたしもいく」
 長門さんがようやく停止状態から復帰してくださったことで、どうにかこの居心地の悪い沈黙から開放されることができた。
 後でというのは、宇宙人とはいえ長門も女の子なのだし、風呂に行くにしてもいろいろ準備するものもあるのだろう。その点、男はタオル一枚あればいいのだから楽なものである。大してヒゲも伸びちゃいないからカミソリも要らないだろう。
「おう、じゃあ先に行ってるぞ」
 こくりと頷く長門を横目に、俺はさっそく着替えの浴衣とタオルだけを持って、大浴場へと向かった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 真夜中の大浴場はガラリとしていて、予想通りの貸切状態だった。
 手早く身体と頭を洗い、内湯の檜風呂に浸かってゆっくりと温まる。やはり風呂は良いものだ。それが温泉となればなおさらである。この感覚、日本人なら百人に聞けば八十三人くらいは同意してくれるのではないだろうか。
 昨夜は他の客も大勢いて賑わっていたから、こんなに足を伸ばしてくつろぐことはできなかったし、一緒に入っていた古泉がやたらベタベタとくっついてきて気色悪かったのもあって、ろくに温まりもせずにとっとと上がってしまった。今日はその分もゆっくりと風呂を堪能することにしよう。
 しばらくの間、そうして内湯に使っていた俺なのだが、ふと浴場を見渡すと、隅のほうに小さな看板があることに気づいた。そこには「露天風呂」という文字と、外へとつながる扉を指した矢印のマークが記されていた。昨日は気づかなかったが、どうやらこの扉の向こうには露天風呂があるらしい。
 せっかくの温泉旅館だ。露天風呂という極上の贅沢を逃す手はあるまい。しかも夜が開ければもうこの旅館を出るわけだし、朝風呂には古泉も入るだろうから、ゆっくりできるのは今だけだ。次の瞬間には、俺は檜風呂からあがって外へと続く扉へと足を踏み出していた。
「さむっ……」
 1月1日という真冬で、しかも真夜中。外は当然に極寒である。
 浴場を出てから露天風呂への十数メートルを歩いただけで、一度温まった身体もすっかり冷えきってしまう。それでも、その先に露天風呂があると思えば、ほんの僅かな時間の苦行など何てことはない。
 たどり着いた先の露天風呂は、内湯の上品な檜風呂とは一転して、自然味あふれる岩風呂であった。内湯よりも更に濃厚な硫黄の香りが鼻をつく。
 規模としてはそれほど大きな風呂ではなく、入れてもせいぜい三、四人程度であろう。しかし、それはそれで山奥の秘湯といった趣があってよいものだと思う。
 さっそく湯に足を入れ、ゆっくりと全身を浸からせる。源泉かけ流しなのか、少々熱めのお湯ではあったが、むしろこの寒さにはちょうど良いくらいだろう。
 露天風呂から見上げる夜空には、ちらほらと雪が舞い散っていて、月の光りに照らされて仄かに浮かぶ雪化粧をした山々の風景は、まるで水墨画のようで美しい。
 新年早々散々な一日だと思ったけれど、終わり良ければ全てよしともいうし、こんな新年の始まりも悪くないかも知れない。鼻歌なんかを歌いながら、俺はそんなことを思ったのだった。

 

 それから十数分といったところだろうか。それなりに身体温まってきて、一旦お湯から上がって身体を冷まそうかと思ってきた頃。
 ガラリ、と扉を開ける音がした。
 反射的に音がした方向へと視線を向けると、人の形をした影がゆっくりとこちらへと近づいていた。直立しているその影からして、猿や動物の類ではなさそうである。ということは、俺達と同じ旅行客なのだろう。
 湯けむりに隠れてあまりよく見えないが、髪はざんばらに切られてあって、背丈もそれほど高くはないというシルエットからすると、どうやら小学生か中学生くらいの男の子のようだ。
 自分で言うのもなんだが、ただでさえこんな時間に遅い入浴というのは珍しいし、子供であればなおさらだ。親御さんは中で身体でも洗っているのだろうか。
 そんなことを考えているうちに、その人影はだんだんと近づいて来て、目前およそ数メートルといったところまで近づいたところで、そいつと俺を隔てていた白い湯けむりがようやく消え去った。

 

 今になって思えば、その時点で気づくべきだったのだ。そいつが、"俺が入ってきた場所とは逆方向からやって来た"ことに。

 

 突然だが、あなたは温泉や銭湯に来たとき、タオルで前を隠すタイプだろうか。それとも、気にせず全裸で闊歩するタイプだろうか。個人的な経験則に従った統計ではあるが、若者には前者の傾向があり、年配の方や、あるいは立派なものをお持ちの方々は後者の傾向があるように思える。
 ちなみに俺は隠すタイプだ。別に自信がないわけではなく(あるわけでもないが)、単純に他人に見られるのが恥ずかしいからである。古泉と一緒に入ったときなどは、やたらと視線を感じることになるので尚更である。
 前置きが長くなったが、ともあれ、男性でもタオルで見られたくない部分を隠すのはごくごく普通のことではある。しかし、それでも通常であれば隠す部分は下半身だけであり、上半身まで隠すことはまずない。何故って、見られても恥ずかしくないからだ。
 それではここでクエスチョン。

 

 ――なんでこいつ、上半身までバスタオル巻いてるんだ?

 

 結局のところ、そのクエスチョンに対するアンサーは導かれることはなかった。
 なぜなら、"そいつ"の顔を確認してしまった途端、そんな疑問自体が数次元先へと吹っ飛んでいってしまったからである。
 もう、お分かりだろう。

 

 バスタオル一枚の長門有希が、俺の目の前に立っていた。

 

「な、なっ……こっ……」
 あまりのことに口が回っていないのは俺。うまく言語化できないし、情報の伝達に齟齬も発生している。ちなみに、言いたかった台詞は「なんで長門がここにいる?」だ。
「……セブンイレブンで利用することのできる電子マネー?」
 微妙にツッコみにくいボケで返してくるのは長門である。
 そりゃnanacoだ、そんな単語がこの場面で出てくるわけないだろう。
「なんでお前がここにいる」
 改めて長門に問う。ここ、男風呂だぞ。
 そりゃ、宇宙的生命体のお前らに性別なんてあってないようなものかもしれんが、少なくともお前は女性として造られているんだろうし、俺はそう認識している。
「違う」
 違うって、今更お前の性別が男性でしたとか言われても困るぞ。それこそ今後の対応を考えなければならない。
「そうではない」
 心なしかムッとしたように長門が言う。別に見かけが男っぽいとか言ってるわけじゃないからな?
「じゃあ何が違うんだよ」
「ここは、今は男風呂ではない」
「今は?」
「そう。この旅館の露天風呂は、男風呂と女風呂の双方と繋がっており、時間帯によって男湯と女湯が切り替わる仕組みになっている」
「じゃあ、今のここは女湯ってことか?」
 だとしたら、今の俺は女湯に堂々と浸かっている変質者ということになる。来たのが長門だったからよかったものの、他の一般客だったら今頃俺の両手は後ろに回っていただろうし、ハルヒだったらもっと酷い目にあっていたかもしれない。
 そんな具合に、起こり得た最悪の事態を想像した俺だったが、
「それも違う」
 長門はゆっくりと首を横に振り、
「午前0時から5時までは、男湯と女湯という区分けがなされない」
 淡々とそう述べた。ええと、それってつまり。
「……混浴ってことか?」
「そう」
「そんなこと、全然知らなかったぞ」
「旅館のパンフレットに明記されている」
 だって、読んでないから入浴できるかどうかお前に聞いたわけだし。――まあ、そんなことはどうでもいい。とりあえずは、今の状況をまとめるとしよう。
 ここは混浴の露天風呂。俺は半裸の状態で湯船に浸かっている。長門はバスタオル一枚の状態で俺の目の前に立っている。長門、寒そうだなあ……ってそうじゃなくて。
「長門なら、俺がここにいることはわかっていたんじゃないか?」
 コクリ、と当たり前のように頷く長門。
「ならなんで入ってくるんだよ」
 やはり、この宇宙人も少しばかり酔っ払っているのではないだろうか。いくら慣れ親しんだ仲とはいえ、異性が入浴中とわかっていて堂々と混浴の風呂に入ってくるというのは、年頃の娘の行動としては常識から外れている。
 しかし、当の宇宙人はそんな非常識さなど一片も感じさせぬ無表情で、
「昨夜、古泉一樹があなたに、『たまには裸の付き合いで親睦を深めるのも悪くないでしょう』と声をかけていた。このことから、有機生命体は入浴を共にすることで親睦を深めるものであると解釈できる」
 確かにそれは間違ってはいない。古泉が言うと気持ち悪いだけだが。
 さらに長門は淡々と、あらかじめ用意していた原稿用紙を音読するかのように、
「そして、あなたは先程『長門もどうだ』と述べた。露天風呂が混浴であるこの時間帯に入浴に誘うということは、混浴の露天風呂に一緒に入ることで親睦を深めようという提案であると意思解釈できる。わたしはそのように理解し、あなたのその提案に賛同した」
 長門がそこまで言い切ったときには、俺は思わず頭を抱えていた。
 さすがは長門さん、確かに論理的にはしっかりと筋が通っていらっしゃる。しかしながら、残念なことにこれっぽっちも当たっていない。そもそも俺は混浴なんてこと知らなかったわけだし、仮に知っていたとしても同級生女子を混浴に誘うなんてことはあり得ない。
「あのなあ……」
「…………」
 頭を抱えたまま嘆息を漏らす俺に対し、長門は「なに?」とでも言いたげに数ミリほど頭を傾けた。この微細な動きを判別できる人間はそれほど多くないだろうが、数少ないその一人であろう俺でさえ、先程の長門の理由提示が本音なのか建前なのかはわからなかった。本音だとすれば常識外れにも程があるし、建前だとすればどうしてそこまで混浴したがるのかわからん。
 もちろん、俺も年頃の男であるからして、混浴という男のロマンには興味がないわけがない。ましてや、同級生の女の子と一緒に風呂に入るなどという、今後ありそうにもない機会は是非とも体験しておきたいところである。たとえ、それが神様レベルの万能能力を持った宇宙人であってもだ。
 だが、その宇宙人であるが故に人間としての一般常識から外れている長門の行動を利用して自分の欲望を満たすというのはやはり卑怯な気もするし、今まで長門と培ってきた信頼関係のようなものに対する裏切りのようにも思える。せっかくの長門による不純異性交遊ノススメではあるが、ここは理性に軍配を上げざるを得ない。
 そんな本能と理性の脳内闘争に決着をつけ、どうにかこの場を収拾させるための俺が言い訳を探しはじめた俺だったが、結論から言えばそれは徒労であり、次の長門の行動により、事態の収集は未来永劫不可能となった。
「……さむい」
 いかにも棒読みといった感じでそう呟いた長門は、おもむろにその身体に巻いていたバスタオルをほどいていった。
「なっ……」
 まるで朝倉に金縛りを食らった時のように俺の全身が硬直し、喉から出かかった声すら途中で止まってしまった。
 バスタオル一枚を巻いた状態でそのバスタオルをほどけばどうなるか、などという命題はもはや考えるまでもなく自明である。テレビの温泉番組でタレントがやってるようにバスタオルの下に水着を着込んでいるなんてこともない。
 少しずつ、少しずつ、視界を占める肌色の割合が多くなっていき、最後には一糸まとわぬ状態へと行き着く。通俗的な用語を使用すれば、素っ裸である。その、素っ裸の長門が、無駄のない手つきでバスタオルを小さくたたんでいる。俺の目の前で。
 さすがは、この銀河を統括する存在が作ったアンドロイドである。その生身の身体はどこからどうみても人間そのものであり、彼女が女性として造られた証の一つであるそれは、小ぶりではあるけれども、しっかりと女性らしさを主張していた――じゃなくって!
「な、な、何やってんだお前!?」
 ようやく声を取り戻し、慌てて体ごと目を背けた俺だったが、今更背けたところで長門の裸体を凝視してしまった事実は消えるわけもなく、異常な心拍数と体表温度の上昇がそのことを証明していた。
 そんな俺の背中に、長門の抑揚のない声が少しエコーして響く。
「な、な、何やってんだお前!?」
 ようやく声を取り戻し、慌てて体ごと目を背けた俺だったが、今更背けたところで長門の裸体を凝視してしまった事実は消えるわけもなく、異常な心拍数と体表温度の上昇がそのことを証明していた。
 そんな俺の背中に、長門の抑揚のない声が少しエコーして響く。
「寒いから」
 そして、ちゃぽんと足が湯船に入る音。
 そりゃわかるよ。寒いから湯船に入ったんだろうよ。だが俺が聞きたいのはそうじゃなくて、なんでいきなり目の前でバスタオルを脱いだのかってことで。
「バスタオルを湯船に入れるのはマナー違反」
「お前のその行動はモラル違反だっ!」
 口をついて出た声は裏返り、血管が破れてしまうのではないかというほどに心臓はオーバーワークを続けている。
 あるいは、巨人が暴れまわる灰色空間ツアーに連れて行かれたり、似ているけれども違う世界に飛ばされたり、脱出困難な孤島や山荘に閉じ込められたりといった、今まで俺が体験した不可思議現象の数々に比べれば、露天風呂で全裸の同級生と一緒になるくらいはまだ現実的範疇にとどまるのかもしれない。
 それでも、事実の現実性とそれが精神に与える負荷は必ずしも比例しないということは、今の俺の動揺ぶりを見ていただければわかるだろう。
「モラル――道徳とは決して普遍的なものではない。むしろ、混浴という制度が一般化していることこそが、わたしの行動の普遍性を示しているともいえる」
 そんな俺とは対照的に、平素の冷静さを保っている長門。その台詞に反駁する間もなく、
「お、おい……」
 長門は俺の隣に座ったようだった。"ようだった"というのは、俺が未だに長門から体を背けたままであり、目視したわけではないからである。肌が感じる水面の揺れや、湯に身体を沈めた際の音の方向からそう推測したにすぎない。
 けれど、その推測は当たっていたようで、
「正面を向くといい。不自然な体勢では身体が休まらない」
 その言葉は俺の真横から聞こえてきた。
「いや、だって……」
 あんな刺激的極まりないものを再び視界に入れてしまえば最後、たとえ身体が休まっても精神が死んでしまう。
「わたしの身体はあなたの真横に位置している。正面を向いても、あなたの視界にわたしは入らない」
 その言葉が、うら若き女性にあってしかるべき恥じらいという感情に由来するものではないということは、先程目の前で堂々と裸体を披露してくださったことから明らかである。
 きっと、動揺しきりな俺を長門なりに気遣ってくれたのだろう。もっとも、気を遣うべき部分を大きく間違っていることは否めないが。
「あ、ああ……」
 ともあれ、少なくとも、生まれたままの姿の長門有希(ヒューマノイドインターフェースであるところの長門がどんな姿で生まれたのは定かではないが)を視界に入れてしまう危険性は減少したようである。
 このままそっぽを向いていても条件が好転するわけでもなし、ここはとりあえず長門の進言に従うべきだろう。
「じゃ、じゃあ前向くぞ。絶対動くなよ?」
「わかった」
 その返答を合図にゆっくりと体勢をもとに戻す。視界の隅に見慣れたざんばら頭が見えた段階でストップ。なるほど、確かにこれなら視界には入らない。……別に残念だとか思ってはいない。本当である。

 

「…………」
「…………」
 二人分の三点リーダが支配する露天風呂。
 長門と二人でいるときに沈黙が続くなんてのは珍しくもなんともないし、こいつと知り合ったばかりの頃ならばともかく、今では俺もそれを苦痛とは思わなくなってきている。むしろ、その沈黙を心地よいと感じることさえある。
 だが、それはあくまで平常時の場合の話だ。こんな非常事態においては心地よさを感じる余裕などあるわけがなく、今は、少しでも気を抜けば視線を横に向けてしまいそうになる己を抑えるのに精一杯である。
 もちろん、いつまでもそんなギリギリの緊張感を保っていられるはずもないし、いずれ破綻するのは目に見えている。長門に動く気配がない以上、とっとと俺が上がってしまうべきなのだろう。
 だが、長門がぴったり隣に来てしまった今ではそれも難しい。この狭い岩風呂に、出入口になるような足場らしい足場は一つしかなく、そこに辿り着くためには長門の真ん前を通らなくてはならない。タオルで隠せれば楽なのだが、都合の悪いことに、そのタオルは入るときに出入口付近に放置してしまっている。
 いくら長門の正体が宇宙人謹製のアンドロイドであるとしても、見かけは同年代の女子高生そのものであるわけだし、俺の認識もそれに準じているわけであるから、そんな存在に自らのあられもない姿を見せるというのは憚られる。女々しいとは思うが、無理なものは無理なのだ。長門のほうがよっぽど男らしいかもしれない。
 これが恥ずかしがり屋な女の子であれば、あるいは目を背けてくれるということもあるかもしれないが、長門がそうしてくれる可能性はゼロに近しいし、むしろ凝視してきそうな気さえする。そもそも恥ずかしがり屋な女の子はこんなことしない。
 いっそ両手で隠してダッシュで逃げるという手も考えたが、数分前からそれも不可能になった。何故かって?……察してくれ。裸の長門が僅か数センチ横に座っているという現実を意識した時点で、それは避けられない運命なのである。
「気にしなくてもよい。生理現象」
 察してくれた、というよりも観測されてしまったらしい。
「……勘弁して下さい」
 どうして山奥の温泉旅館にまで来て、こんな辱めを受けなければならないのだろう。俺が女の子ならもう嫁には行けないところだ。
 けれど、そんな長門のおかげで、張り詰めていた緊張の糸が解けたような気もした。全てお見通しなのだと思ってしまえば、逆に気が楽だし、いっそ開き直って普段通りにしていようかという気にもなってくる。
 そもそも、この万能宇宙人相手に、何かを隠そうとすること自体が間違いだったのかもしれない。
「まったく……せっかくだから"親睦を深める"か?」
 こうなれば、まな板の上のキョンってやつだ。無論、この場合のまな板に深い意味は無いことは言うまでもない。実際、まな板なんかじゃなかったしな。
「……そうする」
 あくまで平坦な長門の声。たとえそれが建前で、何か他の意図があるのだとしても、親睦を深めたいと言われて嫌な気持ちにはならない。
 もっとも、俺としては、既に長門とは十分すぎるくらいに親睦を深めていると思っているんだけどな。出会ってすぐの無口な変わり者としか思っていなかった頃や、正体を知ってしばらくの便利な宇宙人としか思っていなかった頃と、今では、長門に対する認識も感情も大きく変化している。
 それくらい、長門が絡む出来事はたくさんあったし、その分だけ思い出を共有してきたはずだ。その中にはもちろん、この長門が知らない"あいつ"の思い出も含まれているのだけれど。
 ……あいつは、こんなことは絶対にしないだろうな。
 俺のなかに生きるもう一人の彼女を思い出し、そいつといま隣にいる宇宙人との差異の大きさに思わず苦笑する。気がつけば、心臓の鼓動もようやく収まってきていた。
「……ん?」
 俺の嗅覚が、今まで気づかなかったものを感知する。
 左隣からふうわりと香ってくる"それ"は、おそらく長門がここに来た時点で存在していたものなのだろうが、極度に動揺していた俺にそれを感じる余裕はなく、ある程度平常心を取り戻した今になって、初めて気付くことができたというわけだ。
 それに、この匂いって。
「なあ、もう髪洗ってきたのか?」
 わざわざ聞かずとも目視すればわかるのだろうが、この状況では髪だけを見るというわけにはいきそうにない。確実に理性が本能に勝って余計なものまで見てしまうだろう。
「そう」
 肯定の返事。
「もしかしてそのシャンプーって」
 視界の隅で、まだ濡れているであろう長門の髪が縦に揺れる。俺の問いの意味を理解してくれたらしい。
「昨日、入浴の際に朝比奈みくるの私物を貸借した。備え付けのものは頭髪のメンテナンス上、ふさわしくないらしい」
 そうなのか、俺はそんなもん気にしないけどな。確かに少しバサバサするような気はするけど。
「わたしもそう述べた。でも、涼宮ハルヒに『有希は少し身だしなみに無頓着すぎる』と注意されてしまった」
「へえ、ハルヒがそんなこと言うなんて意外だな」
 あの、男子がいるところで平気で着替えてたような奴がね。もっとも、羞恥心がないことと身だしなみに気を使うこととは別なのかもしれないが。
「あなたも、同様の意見?」
 注意して聞かないと疑問形かどうかも分からないような口調で長門が問う。
 宇宙人といえども女の子である。流石の長門も身だしなみに無頓着と言われると気になるものなのだろうか。
「うーん、俺はそんなこと思ったことはないけどな……」
 確かに、髪は無造作なショートカットで手間がかかるような感じではないし、顔もおそらくノーメイクなのだろうが、素材がいいからまったく気にならない。むしろ、下手に派手な髪型で、化粧が濃い長門なんて、なんか嫌だ。
「長門はそのままでいいと思うぞ。そのままで十分――」
 口をついて出そうになったその言葉を、慌てて押しとどめる。お察しの通り、その先に続く予定だった言葉は「可愛い」なのだが、そんなことを口走ってしまったが最後、しばらくは長門の顔をまともに見れそうにない。
「十分?」
「な、なんでもない。ほら、あんまり外見に気を使っても、朝比奈さんみたいにいろんな男にジロジロ見られて大変だと思うぞ?」
 もっとも、長門は長門でコンピ研の連中をはじめ、一部男子の熱烈な支持を受けているようだが。長門にとっては喜ばしいことなのだろうが、俺としては、長門の良さを最初に見つけたのは自分だと思っているだけに、何だか腹立たしい気持ちもある。谷口が先にAランクマイナーに認定してただろうって? そんな昔のことは忘れた。
 そんな具合に、露骨に話の方向を曲げてしまった俺なのだが、長門はそれを追及するでもなく、思い出したように声を発した。
「昨日の涼宮ハルヒも、『まあ、あんまり気を使いすぎると、今度はキョンみたいなスケベに視姦されるから良し悪しよね』とも言っていた」
 あの野郎、人がいないところで好き放題言いやがって。ハルヒに言われるならともかく、長門の冷静な声で「スケベ」だの「視姦」だの言われると流石に傷つくぞ。言葉責めされてる気分だ。
「続けて、『最近は有希のこともじろじろ見てるみたいだし、気をつけなさい』とも」
「じろじろってなあ……」
「それは、事実?」
 視界の左隅で長門の髪が横に揺れる。顔を横に向け俺に視線を俺に浴びせているのだろう。その黒くて大きな双眸から放たれているであろう見えない圧力が、俺の横顔に突き刺さっているのをひしひしと感じる。
 そんな圧力に屈するように、俺は正直に白状する。
「……じろじろはともかく、見てるってのは間違ってない」
 確かにハルヒの言う通りだった。ここ最近、部室で暇なときは大体長門を眺めているような気がする。
「なぜ」
 視線からは解放されたようだったが、依然として長門の追及は続く。もっとも、他人が自分を見ているとなれば、その理由を知りたいのは当然のことだろう。
 とはいえ、その追及をされる側としては、日頃から女子を見ていることを当人の前で白状させられたうえ、その理由まで当人の前で述べさせられるなどという展開からは逃げたいというのが本音なわけで。
 くそっ、これもそれもあの酒癖の悪い団長様のせいだ。
「もしかして、迷惑だったか?」
「迷惑ではない」
 質問に質問で返すルール違反の会話を気にするでもなく、長門は即答する。
 その躊躇いのない返答には、安堵を覚えずにはいられない。ここで迷惑だなんて言われたら、"あっちの世界"で朝比奈さんに殴られたときと同じくらいのショックを受けることは間違いなかったどころだ。
「そうか」
「そう。それで、なぜ?」
 話題をずらすことで誤魔化そうと思ったが、そんな小細工が通用する相手ではなかった。長門にしてみれば、それはそれ、これはこれといったところなのだろう。
 だが、なぜといわれても、正直そんなこと考えたこともない。
「なんとなく……っていう解答じゃだめか?」
 長門は是とも否とも言わず、
「…………」
 代わりに沈黙をもって答えた。
 目は口ほどに物を言うという言葉があるが、時には口以上に物を言う長門の瞳も、この状況では窺うことができない。とはいえ、隣のざんばら頭から発せられる無言のオーラは、そんな適当な解答では許さないぞと強硬に主張している。
「うーん……」
 言われてみれば、俺は何故長門を眺めていたのだろう。理由もなく見られているなんてのは、長門にとっては気持ちのいいことじゃないだろうし、それこそハルヒの言う通り視姦になってしまう。
「ハルヒを眺めても厄介事に巻き込まれそうだし、朝比奈さんを眺めればハルヒにいちゃもん付けられそうだしな……」
 だから、自然と長門に視線が向いてしまうのかもしれない、朝比奈さんとちょっとした会話をするだけで突っかかってくるハルヒの奴も、何故か長門が相手だとあまり口出ししてこないし。もちろん、古泉なんぞ眺めたくないことは言うまでもない。
 口から発せられたその"理由"は、一応合理的なものではあったけれど、自分で言っていてなんだか間違っているような気がした。
「消去法?」
 真冬の夜の冷たい空気に響いた長門のその声は、どことなく不満気に――いや、寂しそうに聞こえた。
 確かにさっきの言説では、他に見るものがないから仕方なく長門を眺めていることになる。俺が覚えた違和感もその点だった。そんな消極的な理由で長門を見ていたのかと、再度問われれば、
「そういうわけじゃない」
 答えはNOになる。もっと何か、積極的な理由がある気がする。
「では、なぜ」
 追及を続ける長門。やはり、うやむやにしてくれるつもりはないみたいだ。
「…………」
 この三点リーダは俺のものだ。悩みに悩んで、長門の十八番を奪うようにしばらく沈黙した後、俺がようやくひねり出した"理由"は、
「……長門を見てると、落ち着くっていうのはあるな」
 俺が、いつもその場所で感じていること、そのものだった。
「いつも同じ場所で、同じような動きで、同じように本を読んでる長門を見ていると、何だか落ち着くっていうかさ」
 何だかかなり恥ずかしいことを言っているような気はするが、そもそもがお互い素っ裸で隣り合っているという状態である。今更そんなことを気にしても仕方ないだろう。そう開き直るしかない。
 それにしても、ある意味ではハルヒ以上にキテレツな存在――非日常の象徴であるような長門に、日常の平穏を感じてしまうというのも、なんだかおかしな話だ。
「………………そう」
 少し長めの三点リーダの後、普段よりもっと控えめな声で呟くと、今度は長門が沈黙状態に陥ってしまった。

 

 流石は沈黙の代名詞、サイレントガールこと長門有希である。その沈黙は俺のものとは比べ物にならないくらい長い。というか、そっちから聞いてきたのにいざ答えたらだんまりってのはやめてくれよ。間が持たん。
 そんな、互いの心臓の音すら聞こえそうな静寂から抜け出すべく、
「なあ、なが――」
「あなたは――」
 話題を変えようとした俺なのだが、見事に台詞が被ってしまった。なんなんだ、この間の悪さは。コメディドラマじゃあるまいし。
「あ、先にいいぞ」
「あなたが先」
 そして定番の譲り合いである。
「いや、レディーファーストっていうだろ?」
 一般的なマナーを根拠に長門の優先を主張する俺だったが、長門はさらに具体的かつ強力な根拠を持ち出してきた。
「あなたの発声が0.72秒速かった。故にあなたの質問が優先されるべき」
 ホントかよ。それ、適当じゃないだろうな?
「間違いない」
 左様ですか。こうなれば仕方ない、遠慮無く先に言わせてもらうことにしよう。
「ええと、長門は普段は何で髪洗ってるんだ?」
 新しい話題というよりは、一つ前の話題に戻すという感じだろうか。髪のメンテナンスは気にしないという長門が普段何を使っているのか、俺は少しばかり気になっていた。
 ちなみに、俺はお袋が使ってる女物のシャンプーを使わされている。こういう男子って結構多いのではないだろうか。我が家では妹だけが特別扱いで、何やらアニメのキャラクターがパッケージに描かれた子供用のシャンプーを買ってもらっている。
 その問いに対する長門の答えは単純明快だった。
「せっけん」
「石鹸って……身体だけじゃなく、髪もか?」
「そう」
 なるほど、長門らしいといえば長門らしい。最近はシャンプー石鹸なるものもあるらしいが、長門の場合はそういうのじゃなく、一般的な石鹸で身体も髪も洗っているのだろう。
「通りで、長門からはシャンプーの匂いとかがしないわけだな」
 口に出してしまって、とんでもないことを言ってしまったことに気づく。
「ああ、いや、普段から嗅いでるってわけじゃなくだな」
 慌てて弁解する俺だったが、長門は声色を変えることなく、
「構わない。無香性の石鹸を使用していたのは事実」
 そうかい、当てることができて嬉しいよ……。
 なんだか、質問をしてそれに答えてもらっただけなのに、敗北感と羞恥心に打ちのめされている。変なことを口走った俺が悪いのだが。
「それで、長門は何を聞きたかったんだ?」
 気を取り直して聞くと、長門は一呼吸置いて、
「あなたは、現在わたしの髪が発している香りを感知した」
 それは単なる事実の指摘だった。非難めいた口調でもない。
「あ、ああ」
「……あなたは、この香りが好き?」
「朝比奈さんのシャンプーの匂いのことか?」
「そう」
 ここでようやく、長門の問いの意図を掴むことができた。要するに、自分もこのシャンプーを使うべきか、ということを俺に聞きたいのだろう。朝比奈さんやハルヒに言われたことを、長門なりに気にしていたのかもしれない。
「好きだけど、長門には合わないと思うぞ」
「……そう」
 明白に声のトーンが下がってしまった。言い方がまずかっただろうか。
「あー、いや、そういう意味じゃない。朝比奈さんに合う香りが、長門に合うとは限らないって意味だからな?」
 例えば、古泉が甘ったるい香水を付けてても女受けするかもしれないが、俺がそんなことをしたらただの気持ち悪いオカマだ。
「合う香り、とは?」
「俺もうまく説明できないけど……朝比奈さんみたいなふわふわした感じと、ハルヒみたいな明るくて元気な感じと、長門みたいに大人しくて静かな感じとでは、香りのイメージも違うと思うんだ」
「香りのイメージ」
 思案するように長門が呟く。
「ああ、俺としては、長門にはそのシャンプーみたいな甘い香りより、もっとスッキリしたもののほうが似合うと思うんだけどな」
 それこそ石鹸系統の匂いだとか、あるいは柑橘系の香りだとか。
「……わたしにはわからない」
 "イメージ"とか"感じ"とかいう抽象的なものは、論理の固まりとでもいうべき長門には理解し難いのかもしれない。
 視界の隅で長門の髪が揺れ、再び側頭部に長門の視線を感じる。
「あなたに、わたしに似合う香りというものを教えて欲しい」
「ハルヒや朝比奈さんに聞いたほうがいいんじゃないか。女性向けのシャンプーのことなら、あいつらのほうが詳しいだろ?」
「だめ」
 だめって、なんで?
「あなたの意見が重要」
「それって、どういう――」
「お願い」
 珍しく、俺の言葉を遮る長門。
 それは、いなくなった元委員長のような愛嬌のある台詞ではなかったけれど、
「……わかったよ。今度、一緒に見に行こうぜ」
 俺にその要望を承諾させるのには、十分な威力を有していた。
「やくそく」
 そう呟いた長門の声は、どことなく嬉しそうに聞こえた。その弾むような響きは、まるで初デートの約束を取り付けた女の子のようで、不覚にもドキリとさせられる。先ほどの「あなたの意見が重要」という台詞も、そのまま受け取るとするなら――。
 ――いやいや、女という生き物はしばしば意味深な台詞を吐くものなのだ。片方がデートのつもりでも、実は買い物の荷物持ち要因だったなんてのはよく聞く話だ。谷口なんぞ、それで何度失敗したかわかったものじゃない。いくら朴念仁と言われようが、恥ずかしい勘違いをするよりはマシである。
 そこ、情けないとか言うな。

 

 結局、その後もなし崩し的に、俺は長門と"親睦を深める"ことになった。といっても、ただ単に隣り合って湯に浸かりながら話をしていただけなのだが。話の内容も、この温泉の成分と効用についてだとか、最近読んだ面白い本の話だとか、家に置いてきた妹がどれほど酷い暴れ方をしたのかだとか、そんな他愛のないものだった。
 そのうちに、随分と時間も経ったのだろう。ふと気がつけば、身体は芯まで熱くなっていて、頭もぼんやりとしていた。いくら風呂好きの俺といえども、これ以上長風呂していたらのぼせてしまう。
 本来であれば、それならさっさと上がればいいだけの話である。だが、俺自身も一瞬忘れかけていたが、状況は長門が乱入してきたときから何も変わってはいないのだ。つまり、俺は未だ、この湯船を出るに出られない状態にあるというわけである。
「なあ、長門」
「なに」
「そろそろ上がらないか?」
 できれば先に上がってくれるとありがたい。横向いてるからさ。
「もう少し」
 そんな俺の切実なる要望を、長門は無慈悲にも却下する。
 なんとなく、大昔のまだ親父やお袋と一緒に風呂に入っていた頃、毎回のように「あと十数えてからあがりなさい」なんて言われていたことを思い出す。大抵の子供がそうなのだろうが、俺も熱い風呂が苦手で、早くあがりたがっていたっけ。
「左様でございますか」
「さよう」
 あっさりと引き下がる俺と、そんな俺の反応に満足そうな長門。
 意外というべきか、それとも印象通りというべきかはわからないが、長門はかなりの頑固者である。知り合ってすぐの頃に一緒に行った図書館で、石のように本棚の前から動こうとしなかったことなんて、その性格を如実に表しているだろう。
 そんな長門が「もう少し」と言っているのだから、それは何があろうが「もう少し」はあがらないということなのである。それにしても、600年以上の夏休みを耐え切った長門基準の「もう少し」は一体どのくらいなのだろうか。付き合っているうちに茹でダコになってしまう気がする。
 ともあれ、こうなっては仕方ない。長門が満足するまで適当に話でもしながら、この温泉責めに耐えるしかあるまい。そう結論づけ、うまく回転してくれない頭をフル活用して、ようやく一つだけ、この場で長門と話しておきたいトピックを考えついた俺なのだったが――

 

 ――結果的に見れば、これが大失敗だった。

 

「なあ、俺に混浴を誘われたから来たって言ってたよな?」
 話題の切り口は、こんな確認の問いだった。
 当然のことなあら、俺が長門を混浴に誘ったなどという事実は存在しない。しないのだが、長門が俺の言葉をそう意思解釈して、この場に来てしまったというのが今日のハイライトである。もっとも、本当にそう思い込んだのか、それとも建前に過ぎないのかは定かではないが。
「言った」
 俺としても、もはや誘ったか誘ってないかを争うつもりはない。一応は筋が通っていた先程の長門の言説にうまく反論できる自信もないし、もし本当に勘違いさせてしまったのであれば、俺にも非はある。
 ただ、その先の長門の行動については、一言二言、物申しておきたいことがある。
「あのな、仮に俺が誘ったとしてもだ、そんな誘いに簡単に乗っちゃうのはよろしくないと思うぞ」
 一緒にご飯食べに行こうとかそういうレベルの話ではないのだ。誘われたからといって躊躇いもせずに混浴の風呂に入ってきたり、ましてや目の前で平気に裸になったりだなんて、いくらなんでも常軌を逸している。これが本気で誘われたと思いこんでの行動であれば、いくらなんでもガードが緩すぎるだろうし、そうでなく"確信犯的"に行動しているのであればただの露出狂であって余計に悪い。この宇宙人の辞書に恥じらいという言葉は記載されていないのだろうか。
 もしも、長門が日頃から無防備・無警戒な奴だったら、俺もここまで動揺しなかったかもしれない。例えば、ハルヒは馬鹿と煙と並び称されるくらいに高いところへ登りたがる女だし、朝比奈さんは何がないところでも転ぶようなドジっ子であるから、その短いスカート丈もあいまって、目のやり場に困るハプニングに遭遇することも少なくない。
 だが、長門に関してはそのような隙を見せたことは一度たりともない。朝倉と派手に飛び跳ねて戦ってたときさえ、そのスカートの内側は垣間見えなかったくらいだ。それほどに隙のない長門が、そんなチラリズムなど一段も二段も飛び越えて大胆なことをするのだからまるで意味がわからない。パンツじゃないから恥ずかしくないもんってか。
 しかし、長門はそんな俺の動揺をまったく理解してはくれなかったようで、
「なぜ?」
 何が問題なのかわからにあとでも言いたげに、その透明な声色を響かせた。
「長門にそのつもりがなくても、男はその気になっちまうからだ」
「その気、とは」
「男ってのは単純だからさ、今日のお前みたいな態度をとられると、『こいつ、自分に気があるんじゃないか?』って思い込んでしまうんだよ」
 さっきの俺みたいにな。
「酷い奴になると、勝手に勘違いして乱暴なことをしちまうかもしれん」
 もっとも、長門ならそんな不貞な輩がいても指一本触れさせずに撃退できるのだろうが、長門がそんな目に遭うこと自体が、俺にとっては耐え難いことである。
「問題ない」
「そりゃあ、お前ならいくらでも自衛できるだろうが」
「そうではない。あなただから」
 え?
「あなただから、来た」
 それは、俺がそんなことなど到底できないヘタレだって意味か?
「それもある」
 流石に苦笑する。長門よ、そこは嘘でも否定するところだと思うぞ。
 長門は気にせずに言葉を続け、
「あなたはこの国家の同年代の男性という類型の中では、比較的に理性の枷が強い人間。一時の情欲にかられて狼藉を働くような真似はしない」
「ずいぶんと高評価だな」
 ハルヒに言わせれば、しょっちゅう周りの女を視姦してるスケベ野郎らしいが、人によって随分と評価が違うものである。
「客観的観測」
「そうかい」
「そう。……それに、」
 そこで長門は一拍置いて、
「もし、あなたがそのような衝動に駆られたとしても、わたしはそれを受け入れてもよいと考えている」
 とんでもないことを言い出した。
「長門……?」
「先ほど、あなたがわたしを見ていることが真実と知って、わたしは嬉しいと感じた。もっと見て欲しいと感じた」
「あ、ああ」
 長門の突然の独白に、俺はただ生返事をすることしかできない。
 しかし、長門はやはり気にする様子もなく、
「見たい?」
 そう問いかけてきた。いつものように平静で淡々としていながら、それでいて妖艶にも感じられる声で。
「なにを」
「わたしの身体」
 またしても、とんでもなく大胆なことを言い出した。
 あるいは、この大胆さこそが長門有希の本質的要素なのかもしれない。思えば、あれだけ内気なように見えた"あいつ"でさえも、大して面識があるわけでもない俺を一人暮らしの部屋に招いてくれる程度の大胆さはもっていた。本家本元のこいつであれば、このくらいのことができてもおかしくはない。
「……本気か?」
「ほんき」
 長門の身体、つまりはさっき一瞬だけ見た"それ"だ。
 そんなもの、見たいに決まっている。だが、ここで「見たい」と答えれば、次の瞬間には、長門は惜しげも無くその裸体を晒すのだろう。そうなったとき、俺は理性を保てる自信はまったくない。それこそ、「一時の情欲にかられた狼藉」に出かねない。そんなことになれば、俺はこれからの人生ずっと、自己嫌悪しながら生きることになるだろう。
 窮極の二択とも言えるその問いに答えかねていた俺だったが、

 

「沈黙は肯定の証」

 

 その定評ある法則の適用宣言とともに、一瞬のうちに俺の目の前へと姿を移した長門によって、世界は一変した。
 その世界に存在を許されるのは、艶かしく曲線的な彼女の裸体と、そこから弾けるように流れて水面へと落ちる水滴の音、ただそれだけ。そのたった二つの視覚的要素と聴覚的要素だけが、この世界を構成していた。
 もはや、抗議の声をあげることはおろか、目を逸らすことさえできない。
 それほどに、目が映し出す長門の肢体は圧倒的で、何かの芸術作品じゃないかというくらいに美しかった。長いこと温泉に浸かった効果なのだろう、彼女の特徴たる雪のように白い肌には少しばかり朱が差していて、まるで桜のように鮮やかで。同年代の女性と比較すれば慎ましい部類に入るであろうその胸も、彼女の細身な体型と相まって一種の完成した美しさを形成している。
「一つ、問いたい」
 そんな美しい宇宙人が問う。
「先ほどの一般論にあなたは該当する?」
 一般論? 長門が何のことを指しているのかわからない。
 いまだ声を出せず、聞き返すことすらできない俺だったが、頭の中の疑問をテレパシーで知覚したかのように、長門はさらに問う。
「わたしの行動で、あなたは『その気に』なる?」
 やっと質問の意図を理解することができた。要するに、今日の長門の行動で、俺が「長門は俺に気があるんじゃないか」と考えるのかというかだろう。
 そして、長門がそんな質問をしてきたことで、ようやく俺は気づいた。

 

 俺の"勘違い"が、勘違いでなかったということに。

 

「長門、俺は――」
 声を取り戻した俺だったが、その先の言葉を紡ぐことはできなかった。
 彼女の細い人差し指が、俺の口を塞いでいたからだ。
「理解している。あなたは『その気』になっても、実際に行動を移すことはない」
 そう呟くと、長門は少しだけ俺の方へと近寄り、そっと膝を曲げて屈んだ。
 そのまま長門は両手をゆっくりと伸ばし、その両手は俺の耳の上のあたりに添えられ、ちょうど俺の頭を挟む形になった。必然的に、俺の視線は長門の顔へと固定される。
 彼女の潤った漆黒の瞳が俺を見つめる。

 

「だから、わたしが、する」

 

「でも、こんなところじゃ、人が――」
「来ない」
「えっ?」
「誰も、来れない」
「それって、どういう――」
 しかし、そんな疑問は、瞼を閉じた長門の切なげな表情を前に弾け飛んだ。

 

 ゆっくりと、ゆっくりと。
 長門の顔が、長門の唇が、近づいてくる。
 吸い寄せられるように、その唇に――

 

 柔らかい、感触。

 

 その感覚を最後に、目の前が真っ白になり、俺の意識は途絶えた。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 意識を取り戻した俺の視界に入ってきたのは、
「もう! のぼせて倒れるまで入るなんてバカじゃないの?」
 腰に手を当ててぷんすかと怒る団長様のお顔だった。
「よかったですう」
「安心しました」
 ハルヒの両脇には朝比奈さんと古泉が立っていて、両名ともにホッとしたような顔をしている。
「古泉、もう大丈夫なのか?」
「ええ、おかげさまで」
 人畜無害なスマイルを見せる古泉をよそに、ハルヒはぷりぷりと怒り、
「古泉くんのことはいいのよ! まったく、有希がたまたま見つけてくれたからいいものの、ひょっとしたら溺れてたかもしれないのよ!?」
「心配してくれたのか?」
 ハルヒはうぐっと小さな唸り声を上げて、
「んなわけ無いでしょ! 団活で死人なんて出たらSOS団の名に傷が付くのよ! だいたいそんな軽口叩いて、あたし以外の三人の心配させたこと反省してるわけ?」
「悪かったって……」
 ハルヒには悪いが、俺の頭はまったく別のことに思いを至らせていた。温泉での一連の出来事――長門が乱入してきて、いろんな話をして、最後には全裸の長門がキスを迫ってきたこと――あれは夢だったのか?
 確かに、こうして思い返してみると現実味がなさすぎる。しかし、夢だと考えるにしては些かリアルすぎるということもある。
 そういえば、その長門が見当たらない。
「ところで、長門は?」
「有希なら洗面所に濡れタオルの替わりを作っていってくれてるわ。有希、あたしたちが起きるまでもずっとあんたを看てたんだからね」
「長門が……」
 そこで、ハルヒは思い出したように、
「そういえば、有希は露天風呂であんたを見つけたって言ってたわね。たまたま混浴の時間だったって……。もしかしてあんた、お風呂に有希が入ってくるのを待っててのぼせたんじゃないでしょうね?」
 んなっ!そんなわけあるか!
「どうだか。あんた、露天風呂が混浴になるの知ってて、有希のハダカ見ようとして待ってたんじゃないの?」
「違う。断じて違う!」
 あれが現実だとしたら、長門の裸は確かに見たことになるが、決して長門の裸が見たくて露天風呂に入ったわけじゃない。
「ふうん……」
 じとーっとした目で俺を睨むハルヒ。明らかに信用していない。仕方なく、視線で古泉に助け舟を求める。快方してやったんだからどうにかしろ。
 そんな気持ち悪いアイコンタクトが功を奏し、古泉は俺の意を察してくれたらしい。
「涼宮さん、彼は先に酔いつぶれた我々を介抱してくれたり、部屋を片づけたりしてくれて、酷く疲れていたのでしょう。ついつい長風呂になってしまうというのもおかしいことではありません。昨晩、あれだけ飲み過ぎてしまった我々が、彼を責めることはできないのではないでしょうか……」
「確かに、昨日はちょっとはしゃぎ過ぎちゃったわよね。半分くらい記憶ないし……」
 上手い具合にハルヒをなだめる古泉。さすが、伊達に長らく副団長をやっているわけではない。
「あの時間の露天風呂が混浴だったことにしても、パンフレットに小さく書いてあっただけですし、正直のところ僕も先ほど始めて知りました。状況証拠だけで故意だと断ずるのは少々可哀想かと……」
「うーん、確かにちょっと疑い過ぎかもしれないわね……。でも……」
 それでもやはり半信半疑と言った様子のハルヒ。
 俺も何かしら適当な弁解をすべきかと頭を巡らせていると、長門が濡れタオルを持って部屋へと入ってきた。
「あ、有希。キョン起きたわよ」
 部屋の入口で、長門はじっと俺を見つめた。
 その目はどことなく不機嫌そうで、まるで俺を糾弾しているようにも見えた。そんな長門の目を見て、俺は昨夜の出来事が真実であることを確信した。
 長門は、風呂で倒れてる俺を助けるのが面倒だったとか迷惑だったとかいう理由で、ああいう目をすることは絶対にない。つまり、あれは"いいところ"でぶっ倒れた俺に対する非難の目である。そして、真実であるとわかった途端、昨夜の出来事が鮮明に頭のなかに蘇り、顔が熱くなるのを感じた。
 そんな俺をよそに、ハルヒはデカい声で、部屋の入口に突っ立ったままの長門に声をかけた。
「ねえ有希、キョンって有希が入ってくるのを待っててのぼせたんだと思わない?」
 なんてこと聞いてやがる。大体それ、長門が「思う」って言ったら俺が長門を待ってたことになるのか? 客観的証拠でもなんでもないだろそれ!
 そんなハルヒのふざけた質問に対し、
「彼がわたしを待っていたのかわからない」
 長門はあくまで平静に答えた。さすが長門、ハルヒの扱い方がわかっている――と思ったのも束の間。
「しかし、わたしに入浴を勧めたのは彼」
 長門がどでかい爆弾を投下した。

 

 場の空気が凍る音が、確かに聞こえた。

 

 確かに、長門に入浴を勧めたのは事実である。だが、その真意はまったく違うところにあるということは、今まで散々述べてきたとおりだ。
 しかし、目の前の女には、そんな言い訳など通用しそうにない。
「……キョン、なにか言い残すことはあるかしら?」
 静かに怒りの炎を燃やす団長様。これから俺に振りかかるであろう悲劇は想像に難くない。一体どれだけ酷い目に遭わされるのだろうな。
 そんな俺たちを見て、古泉は笑顔がひきつっているし、朝比奈さんはあわあわと慌てている。そして――

 

 視界の隅で、長門が人差し指で唇を押さえて、いたずらっぽく笑った気がした。

 

 ――あれが夢でないなら、買い物の約束は有効だよな、長門。

 
 

おしまい

 


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Last-modified: 2013-07-10 (水) 23:30:19 (1615d)